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TAMMひろば・会員だより

会長吉野忠彦  エストニアと私

最初の切手と父の笑顔

           

 小学校3年生のころ、切手の収集が趣味であった父から30枚ぐらいの外国の古切手をもらった。1枚1枚違った図案や色彩で父は丁寧にそれぞれの国の名前のほかどこにあるとか通貨単位の名称や、人物などはどういう人だったかなどを教えてくれたので、歴史に興味をもっていた私の好奇心はすぐに切手の収集に向かっていった。考えてみると私の祖父が逓信省の官吏であったので、多分、父も私同様、小学生の時代に祖父からもらった切手に興味をもってコレクターになったのであり、私に同様のことをさせようと思ったのであろう。

 

父は集めた切手を年代順に写真入りの戦前の国別アルバムにヒンジを使って貼りこむ整理スタイルだったので、父の書斎にしょっちゅう入り込んでは、どの切手がどの国のかなどは早く覚えられ、わからないもの、人物などについては、週末に父から詳しく教えてもらっていたからアルファベットにも抵抗がなくなっていたし、中学以降は、特に世界史や地理や美術の講義で、「ああ、これあの国の切手の絵になっていたな」などと興味をもって受講できた。

そんな時代に父に教わったある切手があった。図案は真ん中にアルファベットで「EESTI POST」と大きく乗っているだけであとは隅の4か所に数字しか書いてなく、色はオレンジ1色。これほどシンプルな切手はないなと思ったのと、文字のうちPOSTは郵便だからと理解できたが「EESTI」がそれまでの私の頭になく、国名だとは思ったのだが、例の父の戦前のアルバムには載っていなかった。

 

それにしてもあまりにシンプルだったので、もしかすると普通切手ではなく不足税切手ではないかと父に確かめた。

父は、「ああ、これは戦前のエストニアという国の最初の切手だ。第1次世界大戦終了直後、他のバルト海2国ラトヴィアとリトアニアと一緒にロシア帝国から独立して、自国の切手を発行したんだ。それだのに20年後の第2次大戦では、まずソ連に、そしてその後ドイツに占領され、戦後はソ連に再占領されている気の毒な国なんだよ。きっと独立当初は資金不足でこんな簡単な普通切手しか発行できなかったんだ。いつか将来またこの国名の入った切手が見られれば良いけれど・・・」という話を聞いて大いに感銘を受けた。が、これが私とエストニアとの最初の貴重な出会いにもなったのである。

 

興銀時代の1994年、再独立から間もないかの国に行くことができ、その国の指導者が皆若く、専門外の学者などが閣僚や中銀の総裁などになっていて彼らの愛国心の強さに感動した。

 

その直後単独でラール首相にもお会いでき、こちらから日本の投資を望まれるなら、バルト海の他の2国より先に大使館を設置し、投資をするならなぜエストニアなのだという投資の手引きを作成することを提案したら、「お前が手伝ってくれるなら、すぐに予算を取る。」という即断で、最初の臨時代理大使になる人と2人で働き、96年には赤坂に大使館ができた。また2010年からは日本エストニア友好協会の会長を今日までお引き受けし、特に文化交流に協力してきた。そして気が付けば今や同国はEUのIT先進国として日本より進んでしまった面もあり、把瑠都関やP・ヤルヴィの活躍もあって「エストニアはどこ?」などとあまり訊かれなくなってきた。

 

本年8月10日私は林芳正外務大臣から、長年のエストニアとの友好関係に寄与したとの理由で個人表彰された。賞状を受け取ったとき、ほんの一瞬、亡き父のにっこりとした顔と例のエストニアの切手が見えたような気がした・・・

                                                          吉野 忠彦