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趣旨

日本とエストニアの心の架け橋に

 1974年エストニアがまだソビエト連邦に支配されていた頃、一人のエストニア人女性が北海道の青年と結婚して来日し、釧路市で4男1女を育てていた。

 1980年代末に始まった「歌う革命」や「人間の鎖」という民族意識の興隆が実を結び、1991年9月6日に旧ソ連邦から解放され、独立回復を果たしたエストニア共和国。 その知らせを聞いた彼女(岡田シーリエ)は友人の前で初めてエストニア語で涙を流しながらその喜びを伝えた。その時同席していた友人が中心となって翌年の1992年6月日本・エストニア友好協会が発足(初代会長:網田静雄)、エストニアとの交流がスタートした。

北海道の2/3の面積に140万人が住み、国土の30%が湿原で産業は漁業、農業、酪農が中心のエストニア、そして2004年からはEUの一員となり、経済成長も著しく2011年からはユーロも導入するまでになったエストニア。

そのエストニアに気候、風土が良く似ている北海道。

 国際交流という文字がやけに目につく昨今、一時のブームではなく、またただ海外旅行に行くのではなく、異国を媒体として、私達の小さな国を、文化を通じて見直すことが出来たら、将来、国際交流などという言葉は消え去り、特別なことでなく、自然に、当然のように人々が行き交い、心がふれあい、友人が出来、文化が交わり、歌声が流れる、そんなつきあいをエストニアとしていきたい。

 その協会の趣旨に賛同してくれる会員は、釧路市を中心に広がり、2代目会長中村正利のもとで1997年4月から札幌市と東京に支部を開設、様々な文化活動を行い、実績を残してきた。

 

 そして2010年7月、これまで北海道との繋がりから始まりその繋がりを主にしてきた活動をさらに全国規模にするために、本部機能を東京に移転して新たな会の発展を目指すことになった。残念ながら協会発足の要となった岡田シーリエは2007年に逝去、釧路の地に眠っているが、独立回復を果たした時の故人の喜びの涙を忘れず、両国の文化的、人的交流に力を尽くしていきたい。

 

日本・エストニア友好協会

会 長  吉野 忠彦