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新着 TAMM 通信

    2026年 日本・エストニア友好協会TAMM通信8月

         ◆◆◇ 活動報告 ◇◆

 

◆◆◇   吉野忠彦JEFA第3代会長退任挨拶

 

会長退任にあたって                 吉野 忠彦

 

今回の春の叙勲で私はエストニアとの交流においての実績を理由に旭日双光章を戴くという栄誉に恵まれました。これを機会に15年以上務めさせていただいた会長職を辞することといたしました。後任は1997年以来コンビを組んできて頂いた荒井秀子さんです。

 

 私がエストニアという国と関係を持った最初は小学校の時、父親からもらった同国の最初の数字切手でした。その時に聞いた父親からのバルト3国の恐ろしい悲劇(その当時地図に載っていなかった!)の話は手の上に載っている切手とともに私の心に深く刻み込まれました。

 

その後も、3回の欧州勤務の折、特に1989年からのルクセンブルク滞在中、ベルリンの壁の崩壊から始まった社会主義からの自由化はソ連のクーデターそしてバルト3国の再独立につながり、歴史に深い関心を持っている私にとっては実に興味深い毎日でした。3国の人々が武器に頼らず、手をつなぎ、歌を歌って連携してソ連の戦車を追い払ったシーンに深く感動し、何度もビデオで見たことを昨日の出来事のように思い出します。日本興行銀行に復帰後のそして1994年に日本生産性本部が主催した欧州での新ビジネス・チャンスを探る視察団の一員として、初めてエストニア訪問の機会を得ました。この時、まったくの偶然から、首相のマルト・ラール氏と親しくなり、東京での大使館設立と日本語での投資手引書の作成を進言したところ、直ちに予算を取るから手伝ってほしい旨の依頼があり、約2年をかけ実現しました。この時の日本語の通訳で初代の臨時大使となられたヘイキ・ヴァラステさんと2人で大使館用や大使公邸用の建物物件を見て回り、投資手引書の日本語版も今と違ってAIもない時代のこと、2人で議論し、エストニア語の原本と英語版から苦労しながら作成しました。

 

そんなことで、1996年には赤坂に大使館が開設でき、カラス外務大臣が来日、私の銀行にも来られて投資促進協定を締結しました。そして 翌97年メリ大統領が大デレゲーションを率いてこられ、帝国ホテルでのセレモニー、そして私にとっては、今はタルトウーの博物館入りしているほど有名になった大統領との「トイレ事件」が大阪で起きました。

 

その直後、落ち着いたところでヘイキさんから電話があり、「ヨシノさん、大事なお話があります。」と呼び出され、依頼があったのが釧路で92年から活動している日本・エストニア友好協会の東京支部を作りたいので知恵を貸してほしいとのこと、大使館が東京にできるとすべての要人は東京に集中して来日するのでその接遇などに協力してほしい旨でしたので、これも貴重な交流になるなと考え、OKすると、この後、副支部長になった村山喜一郎氏と事務局長になった荒井秀子さんをご紹介され、結果、3人で会員を募集し、釧路本部とも話し合って同年には東京支部がスタートしたのでした。

 

 そのころ私たちが一番苦労したのは、「エストニア」の知名度でした。その後、大相撲での把瑠都関や指揮者のパーヴォ・ヤルヴィさんや御父上のネーメ・ヤルヴィさんなどの大活躍や「歌祭り」の魅力にも助けられ、今日の我が国におけるエストニア・ファンの増加にもつながったのは幸いでした。釧路本部の方々との交流や私自身も計21回の同国訪問を通じエストニアという国が大好きになりました。友好協会のほうも活動が順調に進行し、歴代大使や参事官の方たちとのお付き合いやエストニアに駐在された日本大使の方々や現地の大使館の館員の方たちのサポートも頂け、さらには佐久市の熱心な方々との交流もあって、ついに2010年には、本部機能を東京支部に移転するという大変革もありました。

 

本部としての活動は主としてさくらプロジェクトはじめ、文化(特に、合唱や音楽、映画)面の交流やサポートが多かったかと思いますが、その中ですでに故人となられたお二人の監事山本英二さんと澁谷直衞さんのご指導が大変有難かったことをメンションさせていただきます。

 

昨今は、ウクライナ問題などでのエストニアの出番も増えてきているようですが、私たちはさらにエストニアとの交流を深め世界の平和にも貢献したいと思っています。どうぞ、会員の皆様、荒井新会長をはじめとする新たな役員の体制にこれまで以上のご協力とご支持をお願いして私の退任の言葉とさせていただきます。

 

事務局: 今後、吉野前会長にはJEFA名誉会長として協会を支えていただきます。よろしくお願いします。

 

 

◆◆◇ 2026年度 第3回エストニア文化セミナー

           「エストニアで考える国際関係と安全保障」を聴いて

6月25日に開催された、2026年度第3回エストニア文化セミナーについて、当日参加された吉野名誉会長から感想文をいただきました。

 

                                        吉野忠彦

 

今回は現在タルト大学のヨハン・シュッテ政治学研究所でご専門の「安全保障」を勉学中の君島結斗氏の一時帰国を機に行われたセミナーであった。最近でこそ、エストニアについての我国での認知度は、これまでの関係諸氏のご努力もあり、当会が設立された30数年前とは比較にならないほど高まっているもののやはりEUの中での小国であり、知りたい情報が何でもすぐわかるというほどのことでもない。それはEUの先輩国ルクセンブルクについてでも同様であるが、先日の中村駐エストニア大使の当セミナーでのお話しに次いで大使とは別の視点、角度から生の貴重なお話を、伺えたことに主催者に感謝を申し上げたい。

 

私事になるが、小職が常に興味をもってその動向を追ったり、お話をしている我が国の北方領土問題にエストニアの領土問題の解決策が参考になるのではとの観点から、探して利用させていただいたのが防衛研究所時代の君島さんの書かれた優れたレポートで、以来、同氏と親しくお話をさせていただいており、今回ウクライナ紛争以降の新しいお考えがうかがえるものと期待して伺った。当日の会場も普段はお会いすることのない若い方々もお見かけし、熱気に満ちている感じであった。

 

講演は以下の3つのポイントに焦点を絞りそれぞれに明快なお答えを出される形で行われた。

 

1 現地のニュース、日常から見る安全保障

2 政策の根底にある歴史的経緯と記憶

3 学問的文脈から見るエストニア

 

それぞれ良く考えておられることがわかり有意義だったが、私には以下のご発言が強く印象に残った。

 

・紛争に備えては軍隊だけでなく家庭をも含めた社会的防衛を心掛ける(トータルディフェンス)、少なくとも1週間は持ちこたえられる物資の備蓄、

・支援はすぐ来る前提ではないというシビアな認識

・分断が安全保障の脆弱性へ

・社会的安全保障

・現地の学問的文脈に触れることで、分析の幅が広がる

・人々の記憶も安全保障を構成する重要不可欠な要素

・小生との質疑応答の中で、2代目の大統領メリさんはすでに1994年にはロシアからの脅威について強い懸念を表明していた。

 

同じロシアという拡大主義で隣国を抱えている点では日・エ両国は共通だが、それぞれにはもちろんおかれた立場は大きく異なっており現状ではエストニアはウクライナが近くにあることや国内に人口の1/4を占めるロシア系住民を抱えていることが上記の「分断が安全保障の脆弱に」つながっており、再独立後、ロシアに領土の一部を割譲してまでもいち早くNATOとEUのメンバーになっていることは、日本と大きく違っている。君島氏のお話しをうかがいながら私はそれらのことが日本ではどうなっているのだろうかということを考えながら、この頃国内ではあまり問題にされなくなっている我が北方領土のことを思わずにはおられなかった。

 

 しかし講演後の8月13日(終戦記念日の2日前)にいきなりプーチン大統領が択捉島に乗り込んだことは私たちに改めて我が国に対するこの問題の根深さと困難解決の難しさを思い知らせてくれたようだ。

 

今回の君島氏のお話はもっと多くの若い方々に聴いていただきたかったが、勉学を終えられる1年後にはさらに深い話をうかがえるだろうと思い、そして何よりも氏の学究の大成を願ってやまない。

 

                                        以  上

        

◆◆◇ 駐日エストニア大使館との交流

 

新しい駐日エストニア共和国大使の信任状奉呈式が7月9日に執り行われました。実はアンドレス・ウンガ大使が日本に来られたのは今年初めのことでしたが、諸事情ありこの時期となりました。正式に着任となる日が決まったことで、とてもありがたいことにエストニア大使館から当協会の役員会メンバーへの昼食会のご招待があり、ウンガ大使との初対面する機会をいただきました。平日昼でしたので、出席できた役員は限られましたが、気さくで温かい人柄の大使と、帰国を控えたエリクソン参事官と和やかな会話が弾み、大使館と当友好協会とのさらなる協力体制を約束し合いました。

エストニア外務省の信任状奉呈式のニュース
https://x.gd/zJ3RS

 

また、駐日エストニア大使館のインドレク・エリクソン参事官が、7月末日をもって3年間の任期を終え帰国されることとなり、7月30日、役員会メンバーと在日中に交流のあった皆さんとで送別会を行いました。エリクソン参事官は、来日早々からエストニアの混声合唱団VOX POPULIの公演にご尽力いただいたり、9月のエストニア発祥のムーヴメントWORLD CLEANUP DAYでは渋谷、原宿のごみ拾いに参加、当協会の12月のセミナー恒例のクリスマス会では、エストニア語でもみの木を歌ってくださったり、また、友人であるタルトゥ大学教授監督のフィン・ウゴル民族のドキュメンタリー映画をセミナーに紹介いただいたり、多大なるご協力をいただきました。

 

昨年夏の前大使辞任以降はお一人でマレーシア、フィリピンと3国兼轄の臨時代理大使としてお勤めを果たされました。今後はサバティカル休暇(一定期間働いた後、リフレッシュや学び直しなどのために取れる長期休暇)を取って勉学の時間をもたれるとのこと。日本は大好きというエリクソンさんにお疲れ様の言葉をお伝えし、しばしゆっくりして次の活動の場に幸あれとお別れしました。(荒井)

◆◆◇ 伊勢市合唱団ソルシエール東京公演

 

EU文化首都をご存知でしょうか。毎年EUが選んだ1〜3都市で1年間多彩な文化・芸術行事を開催する大規模な文化事業で、エストニアでは2011年のタリン市に続き、2024年に第2の都市タルトゥ市で行われました。

 

このTARTU2024をきっかけに合唱団交流が始まった、三重県伊勢市の合唱団ソルシエール(指揮者河俣和子氏)は、会員の谷口政弘さんが指導する合唱団で、昨年夏はタルトゥ市で児童合唱団Laulupesaとタリン市ではエストニア放送少女合唱団(ETV Girls’ Choir)と合同演奏し、さらに今年3月には伊勢市にLaulupesaを招聘して合同演奏会が開かれ、8月21日には、東京都三鷹市でエストニア公演の成果が発表されました。

3月には曽根原事務局長が、8月は荒井会長が美しく仕上げられたエストニアの歌や力強い伊勢木遣歌などを拝聴しました。とても難しいエストニア語の歌をしっかり表現豊かに歌い上げていて、指導者の先生方の熱心な指導と団員の皆さんの熱意を感じました。来場されたエストニア大使館の皆さんも、最後に歌われた「Mu isamaa on minu arm」では涙も込み上がってきたと大変喜んでおられました。

         

            ◆◆◇ お知らせ   ◆◆◇

 

◆◆◇ 2026年度第4回エストニア文化セミナー  エストニア映画館賞

 

第4回エストニア文化セミナーは、毎年東京都国立市で開催されている「くにたち映画祭」にて、エストニア・フィンランド・ドイツ合作映画『こころに剣士を』を上映します。

 

開催概要

月日:2026年10月11日(日)

会場:協商さくらホール(東京都国立市東1-4-6 商協ビル2階)

上映作品:『こころに剣士を』  エストニア・フィンランド・ドイツ合作

 

上映時間: 99分

第1回 14:00~

第2回 17:00~

 

トーク: 大中 真先生

(桜美林大学リベラルアーツ学群教授/日本・エストニア友好協会副会長)

第1回 15:45~

第2回 18:45~

 

参加費:

JEFA会員 1,000円 非会員 1,300円

申し込み: 事務局まで eesti@j-efa.com

 

① 映画紹介

『こころに剣士を』は、1950年代のソ連統治下のエストニアを舞台に、フェンシングを通して子どもたちに希望を届けた教師の実話をもとにした作品です。

 

主人公は、ソ連の秘密警察から逃れ、エストニアの小さな町ハープサルに赴任したフェンシング選手エンデル。体育教師となった彼は、子どもたちにフェンシングを教え始めます。競技に打ち込む子どもたちと、彼らに向き合うエンデルの姿を通して、厳しい時代の中での成長と人間の尊厳、希望が描かれます。

 

② トークイベント

各上映後には、大中 真JEFA副会長(桜美林大学リベラルアーツ学群教授)によるトークを行い映画の背景にあるエストニアの歴史や社会についてお話しいただき、作品理解を深めます。

 

③ 1day Trip Estonia🇪🇪 企画

くにたち映画祭では、映画上映に加え、「1day Trip Estonia」と題し、エストニアの食や雑貨、書籍などを通じて文化に触れていただく企画も予定しています。映画鑑賞とあわせて、さまざまな文化的体験を通じて、エストニアの歴史や暮らしをより身近に感じていただければ幸いです。

 

エストニアよくご存知の会員の皆様方にも、これまであまり馴染みのなかった方々にも、ぜひご覧いただきたい作品です。

ご家族やご友人もお誘い合わせの上、ぜひご参加ください。

 

皆様のお申し込みをお待ちしております。

 

◆◆◇ WORLD CLEANUP DAY 2026に参加しませんか?

 

毎年9月20日は “WORLD CLEANUP DAY” 別の名を“世界クリーンアップデー”という、世界で一斉に地球をキレイにしようという、国連の定める国連国際デーです。

 

実はこれは2008年にエストニアの9人の若者が呼びかけて始まったクリーンアップ運動“Teeme ära (Let’s Do It!)” が世界レベルに発展した運動で、昨年は190の国と地域、2,500万人に発展しました。ソ連時代、エストニアでは不要になった家電や家具を森林に投棄するのはよくあることだったそう。それをたった1日で5万人のボランティアがGoogle Mapを駆使して1,000トンのゴミを処理した成果をあげました。奇跡に近い出来事でした。

 

詳しくは: https://youtu.be/A5GryIDl0qY?si=fVKJqVZV59SQvzNU

 

10年後、ニュージーランドから始まりハワイで終わるゴミ拾いグリーンウェーブが地球上に現れました。それがWORLD CLEANUP DAYです。

日本・エストニア友好協会は2016年、エストニア大使館からの要請で、日本にこの運動を広げる役割を託されました。そして準備すること2年、既存のゴミ拾い団体のリーダーたちと共に、2018年より日本もWORLD CLEANUP DAYを始めることができました。

国連国際デーのWORLD CLEANUP DAY当日、渋谷地域のゴミ拾いクリーンアップ活動にJEFA会員として参加しませんか?

 

終了後は国連大学レセプションホールにて、国連国際デー記念イベントにも参加できます。

 

9月20日(日) 08:45  受付開始 09:00 開始  

清掃場所  渋谷センター街 →    神宮通り公園  清掃後国連大学レセプションホールへ移動 

11:00~13:30 国連国際デー記念イベント

     (クリーンアップ関係団体によるプレゼン・パネルディスカッション・交流会)

参加費   無料

詳しくは:  https://worldcleanupday.jp/

 

       ◆◆◇ トピックス ◇◆◆

◆◆◇ 8月は歌う革命の歴史を思う月です

 

 

エストニア共和国は、今年、独立回復35周年を迎えました。

 

「歌う革命(Singing Revolution・1988年夏)」と、バルト三国の人々が手をつないだ人間の鎖「バルトの道(Baltic Way・1989年8月)」は、エストニアが再独立を果たすまでの過程において極めて重要な出来事でした。

 

エストニア最初の独立

 

エストニアの歴史は幾度もの征服と支配の歴史でもあります。しかし、何世紀にもわたり外国の支配を受けながらも、エストニアの人々は祖国の独立を求める願いを決して失うことはありませんでした。

 

エストニアが初めて独立を宣言したのは、1918年2月23日です。

首都タリンから南西へ130kmほど下ったバルト海に面するパルヌ市にある、エンドラ劇場のバルコニーから、エストニアを主権国家とする独立宣言文が市民に向けて読み上げられました。

 

劇場の前に集まった人々は、その場で声を合わせて、後に国歌となる 「Mu isamaa, mu õnn ja rõõm(我が祖国、我が幸せと喜び)」 を歌いました。

 

翌日の2月24日、この独立宣言の知らせは首都タリンにも届き、宣言文は一般市民に向けて公表され、その後の独立戦争と和平交渉を経て、新しい独立国家エストニアが誕生しました。

 

(現在、2月24日はエストニア独立記念日として国民の祝日となっています。)

しかし、独立は長くは続きませんでした。

 

1939年8月23日、ソビエト連邦とナチス・ドイツはモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)を締結しました。この協定には東欧の土地を分け合う協定が秘密裏に締結されており、エストニア・ラトビア・リトアニアはソビエト連邦の「勢力圏」に組み込まれることになっていました。1940年6月、ソ連は軍事圧力を強めてエストニアに侵攻、そして8月6日には実質的に占領、ソ連併合が宣言されたのです。

 

しかし1941年6月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破り、突然ソ連に侵攻、独ソ戦が始まります。その結果バルト三国は1941年から1944年までナチス・ドイツに占領され、その後、第二次世界大戦に巻き込まれていくことになります。これによりエストニアでは、ナチス・ドイツ軍とソ連赤軍に分かれて属さざるを得なくなった父子、兄弟が敵対するという家族内悲劇が現実として起こりました。1945年5月ナチス・ドイツが第2次世界大戦で敗北すると、再びソ連がエストニアを占領し、以後厚い鉄のカーテンの向こう側でエストニア・ソビエト社会主義共和国として半世紀に亘るソ連の支配下に置かれることになったのです。

 

エストニアが再び自由を取り戻すのは、1980年代後半の大きな歴史的転換期を待たなければなりませんでした。

新たな民族意識の高まり

 

1980年代後半になると、エストニアでは民族意識と独立への願いが再び大きな力となって広がり始めました。当時、ソビエト連邦ではペレストロイカ(改革政策)が進められ、社会や経済の自由化が徐々に進んでいました。

 

1987年9月26日、ソビエト連邦内におけるエストニアの経済的自治を求める提案が、タルトゥの新聞 『Edasi(エダシ/「前へ」の意)』 に掲載され、人々の意識も少しずつ変わっていきました。

歌う革命

 

1988年5月にタルトゥで開催されたポップフェスティバルにおいてAlo Mattiisenによる『Viis isamaalist laulu (Five Patriot Songs)』や「Ei ole üksi ükski maa(No Land Is Alone)」が初演され、 6月にはタリン旧市街祭でも歌われ、集まった観衆と共に歌いました。その歌は集会終了後も鳴り止まず、そのまま歌の原(Lauluväljak)に移動して大規模な歌の集会が行われるに至りました。そこでは国を愛する歌が歌われ、人々は歌を通して祖国への思いを歌ではっきり、しっかり表現することができたのです。

 

そしてそれまで以上に音楽、とりわけ合唱はエストニア文化を象徴する大切な存在となっています。バルト三国の人々にとって、合唱は古くから民族の結束と精神的な支えを象徴するものでした。

 

さらに1988年9月11日には、歌の祭典(Laulupidu)が開催され、当時の共和国内人口のおよそ3分の1に相当する30万人ものエストニア人が歌の原に集まりました。そして民族意識は大きく高まり、歌は人々が自らの意思を表現し、ソビエト支配に抗議するための平和的な手段となっていきました。

ポップフェスティバルで歌われた歌・YouTube

 

"Kaunimad laulud" (The Most Beautiful Songs) 

"Mingem üles mägedele" (Let's Go Up on the Mountains)

"Sind surmani" (You Until Death)

"Isamaa ilu hoieldes" (Beholding the Beauty of the Fatherland)

"Eestlane olen ja eestlaseks jään" (I Am an Estonian and an Estonian I Shall Remain) 

"Ei ole üksi ükski maa" (No Land Is Alone)」

バルトの道

 

「歌う革命」と並び、エストニアが独立を回復するうえで決定的な役割を果たしたのが、バルトの道(Baltic Way) です。

 

1989年8月23日、モロトフ=リッベントロップ協定締結からちょうど50年にあたるこの日、エストニア・ラトビア・リトアニアの人々が街頭に集まり始めました。友達から誘われた人、ラジオから流れる呼びかけの声や歌に誘われて家を出ました。およそ200万人におよぶ人々がタリンからリガを経てヴィリニュスまで、時間を合わせて一斉に互いに手を取り合い、全長670キロメートル にも及ぶ巨大な人間の鎖をつくりました。

 

この歴史的な行動は世界中から大きな注目を集め、とりわけソビエト連邦のモスクワ当局にも強い影響を与えたのです。

独立の回復

 

そして1991年、長年続いた独立回復への歩みはついに大きな転機を迎えます。

 

エストニア全土で広がっていた独立回復への運動はさらに勢いを増し、モスクワで起きた8月クーデターの直後、エストニアは歴史的な決断を下しました。

 

1991年8月20日、エストニア最高会議はソビエト連邦からの独立を宣言し、事実上の独立を回復しました。

 

現在、8月20日は「独立回復記念日(Restoration of Independence Day)」として国民の祝日となり、エストニアでは毎年その歴史と自由を祝うさまざまな行事が行われています。

 

 

【参考】Visit Estoniaウェブサイト(エストニア・ビジネス・イノヴェーション庁)