アパートの階段の掲示板に張り紙がしてあるとのこと。エストニア語が読めるはずがない。

 家内はお風呂も入れず誕生日を迎えるなんて悲しいと云い出す。ヘルシンキのホテルに電話した。誕生日当日は満員であったが、翌日から空きがあるという。直ちに予約した。家内に一日辛抱してもらって、誕生祝をヘルシンキですることにした。全てが違っていた。水道の水はうまい、豊富な澄んだお湯、ふかふかのタオル、清潔なレストラン。

 在エストニア日本代理大使夫人が「エストニアの鶏卵はたべられない」と云われるので、なんと気障な人かと思っていたが、フィンランドの卵の黄身はまっ黄色で盛り上がっている。エストニアでは黄色が薄く、盛り上がりがない。確かに生で食べる気がしない。

 ヘルシンキから帰ってからは、学校に行き授業の準備だ。まず教室の鍵だ。日本語専用のLL教室ドアの鍵は3つある。それぞれの鍵を差し込む角度が微妙に違う。スムーズに開けるために何回も練習をした。教室内の教材を納めてある戸棚の鍵は更に難しい。3度か5度くらい斜めに差し込んで、ぶれないようにやっ!と開ける。正に勘と技巧だ。ラボの器具はSONY製で安心。

 ヤルヴェオツァ高校の日本語のクラスは4組あり、それぞれ週6こま、計24こまであると聞いていた。家内が次男の高校の教頭から聞いた忠告をたてに、67歳の新米教師では24こまは絶対無理だと云う。赴任前の7月に、私の勉強した日本語学校に「補助の先生募集」のチラシを貼った。顔見知りの高橋清彦氏から電話あり、採用お願いしたいと云う。奥さんにも会い、同行を確認した。

 タリンに来てすぐ、校長に2名で日本語の授業をやりたいと申請したが、難色を示された。2人分の給与を払えないと云う。結局、1人分の給与、3万円余を2人でシェアーすることで話しがまとまった。高橋氏は9月下旬に赴任したいと連絡があった。住居を探さなくてはならない。不動産屋に電話するが、不動産屋自体が夏休みでいない。また、つかまえても今度は家主が休暇でタリンにいない。それでも何軒かを見て歩き、条件をファックスした。我々の家にファックスはないので、バスで20分、日本大使館のファックスを借りた。高橋氏からの返事もまた大使館に取りに行く。学校の授業もこなしながら、胃の痛む毎日であった。

 家内がかがみを欲しいという。当時タリン唯一のデパート、「カーバーマーヤ」に行くが売っていない。市内の家具屋らしいところを探すが見つからない。やっと、市の中心からタクシーで10分くらいの倉庫みたいな家具屋で一面の姿見が見つかった。大事に抱え、店の周辺をうろうろしたが、タクシーが見当たらない。鏡を買うのに一日仕事であった。

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