1995年 ある音楽家からのエストニア日本語教師の誘い

 1995年春、ある音楽家から、エストニアで日本語の先生をやってくれないかという打診があった。65歳でサラリーマン生活を終了し、趣味半分で日本語教授法の勉強をしていた時であった。その夏、エストニアで行われる「オルガン・フェスティバル」に参加するその音楽家グループに同行することにした。

 タリンでは最も信用あるホテルに投宿した。3日目の朝、お湯の栓をひねってもお湯がでない。フロントに電話した。返事は「それは市の仕事で、我々ホテルは関知しない」であった。社会主義体制の残渣を身にしみて感じた。その日一日、お湯はでなかった。

 週末、地方都市ヴィルヤンデに行った。4階建の大きなホテルに泊まった。しかしエレベーターがない。洗面所に置かれたタオルは、日本では雑巾にも使えないほど黒ずんでいた。お湯は我々が「田圃の水」と云うほど終日ぬるく濁っていた。ホテルに食堂もなく、朝食はホテル前の「お惣菜屋」みたいな店で食べた。労働者風の男たちがたむろしていて、それなりに庶民の生活がわかり面白かった。

 音楽会が行われた教会は立派で、古風だが美しかった。入口のチケット売りは、嘗ては共産党の文化担当幹部だったらしいが、いまや落ちぶれてアル中気味であった。演奏会が始まる前に、アルコールが切れたのか姿を消してしまった。やむなく家内が代わって売った。おぼえたての「テレ」で挨拶すると、来場者たちは仕草も優雅に微笑み返す。エストニア人の礼儀正しさが印象的であった。

 タリンに戻り、日本大使館の徳永代理大使の案内で、ヤルヴェオツァ高校を訪問、エグロン校長と会い、日本から初めてのネイティブ日本語教師として、2年間の契約を結んだ。我々は戦中、戦後の物資欠乏時代の経験がある。この程度の環境なら耐えられると判断した。エストニア人は知性も高く、それに何か嘗ての日本人に通じる暖かさがあった。

1996年  エストニア首都タリンへ赴任 エストニアでの生活

7月末、40数箱のダンボールを携えて家内とタリンに赴任した。当日、たまたまタリンに来られていたフィンランド兼エストニア大使高原須美子氏(故人)の晩餐会に招待され、励まされた。

 生活の準備にあっという間に半月がたった。家内の誕生日にあと2日と迫った日、外出から戻りお湯の栓をひねると、スーと音がするだけである。またかと思いつつ、隣家に住んでいる大家に事情を確かめた。彼は「年2回の配管の修理で1週間はお湯がでない」と云う。

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