2014年エストニア歌と踊りの祭典レポート

XXIV LAULU -JA XIX TANTSU PIDU



 2014年7月、5年に一度エストニアの首都タリンで開催される「歌と踊りの祭典」(Laulu ja Tantsupidu)に行ってきました。1869年に最初に開催された歌の祭典は今回で第26回目を数え、踊りの祭典は第19回目。テーマは「AJA PUUDUTUS PUUDUTUS AEG (Touched by Time, Time to Touch)」、過去を振り返りつつ、未来につなげていこうという演奏プログラム。

 友好協会会員とその友人、親族など、二つのグループで総勢20名を超える参加者があり、現地の人たちとの交流や思いがけないハプニングの連続のツアーとなりました。なお、参加者は祭典と自身の都合を合わせて、それぞれ自由に旅程を組んで参加しましたので、事務局の旅程に従ってご報告いたします。       文: 荒井秀子 写真提供: 吉野忠彦  西川多嘉子  平尾太一



1日目  7月3日

 これまでフィンエアばかり利用してきたけど、今回の飛行機はヘルシンキ就航1年目のJAL。
しかも機材は7月に導入されたばかりの787!ワクワク。機内食は期待通り、満足いくものだったし、おまけに軽食の方は“AIRくまもん”!また、これまでメタリックでなぜかリラックスできないトイレだったけれど、787はソフトなカラーイメージでホッ!快適空の旅だった。

      

 ヘルシンキに少々早着、タクシーのドライバーが名前のカードを持って迎えに来ているはずだけどまだ来ていない。待つこと約20分、約束の16時前に現れた。8人乗りの大型タクシーに乗り、少しヘルシンキ観光。テンペリアウキオ教会と大聖堂に近い港のマーケットプレイスに寄って西港へ。

      

       

 西港に着くと、フィンランドから参加の石井さんが待っていてくれた。見つからない時の為にあれこれ風貌など説明しておいたけど、なんてことはない、東洋人グループは我々だけ。

 さて、乗船、出航。まずは荷物を8階のロッカーに預けに。石井さんが流暢なフィンランド語で交渉してグループひとまとめ料金でOKをゲット。ありがたや。身軽になって早速夕食。これから続くリッチな食事を考えヘルシーメニューを取るが、黒パンがFree takingとのこと発見した結果、欲張って取りすぎ…。

 お腹が一杯になったところで、船内のスーパーで翌日の朝食用の買い物。丸い大きなサーレマー島の黒パンとチーズをゲット。これで安心。そうこうしているうちに右手に平たいナイサール島が見えて
きて、タリン港がすぐそこであることを知らせてくれる。いよいよ前方にタリン旧市街の尖塔のシルエットが見えてきた。何度来ても海からエストニアに入るのは心踊る。

        

 船を降りて長い通路を歩き終えると、そこにはエストニア日本協会会長のへイッキ・ヴァラステ氏がにこやかな笑顔で待っていてくれた。予期せぬ出迎えに一同到着の喜びも倍増。早速予約しておいたタクシーに乗って旧市街中心地、ラエコヤ広場にあるアパートメントホテルへ。ヴァラステ氏はその後に到着する吉野会長を迎えにレナート・メリ・タリン空港へ急いで向かった。

 タクシーは旧市街中心までは、旧市街の住民などに発行されている許可証のある車以外は入れないので、宿に一番近いPikk通り1番で降ろされた。宿まで歩いて1分の所、しかしごろごろ石畳をスーツケースを転がしながら宿の入口を探すこと15分。覚えてしまえば何てことないのだが、タリン旧市街で目的地の扉を探し当てるのは意外と至難の業。通りの名前と番号のみが頼り。Kinga5はKinga1の住所の建物の5階ではないかと予測してきたので、1階にあるレストランのウェイトレスに尋ねるが、知らないと言う。

 そうこうしているうちに建物の右端にそれと思しき玄関扉があることを発見、呼び鈴がいくつも付いている。その中からこれぞと思うベルを押す。無反応。何度も押す、返答なし。到着から30分は経過したかもしれない、夜10時半を回っている、少々焦りが出てくる。でも空がまだ明るいので気持ち慰められていた。

   このアパートメントホテル、レセプションは別の所にあり、受付は20時で終わっている。夕方には先発組の山本さん達が鍵を受け取り、部屋に入って待っているはずなので、携帯で電話してみることに。電波は日本を経由して建物のすぐ上にいるはずの山本さんに届いた。「もしもし」の声にホッ。すぐに美季さんが鍵を持って降りてきてくれた。やれやれ、皆の顔に笑顔が戻った瞬間だった。

   重い荷物をよっこらしょと持ち上げて高めの石の階段を5段上がり、エレベーターがあるので荷物は手で持って登らなくても大丈夫という情報を得ていたので、安心してエレベーターに進むと、なんと!かなり旧式の手動扉の狭苦しい原始的なエレベーター。でもそれはそれなりに面白い。

 完全に扉を閉めてから行き先ボタンを押し、降りる時は完全にエレベーターが動きを止めてから扉を開けないと、故障するとの注意あり。ま、それも面白いかとドキドキしながら赤いボタンを押してみると、ゆっくりゆっくりロープが降りてきて、その後にボックスが降りてきた。止まる前にガガガガガガ!と大きな音がする。一同大笑い。スーツケース2個と人一人乗って一杯。
 まずは鉄の外扉を閉め、次に木製の開き扉をしっかり閉め(しっかり閉めないと、これまた故障の原因になる)4階のボタンを押す。じわじわと上がっていく。横の階段を昇る人たちの方が早い…。ガツンという衝撃と共にエレベーターが止まった。完全に止まったことを確認して怖々二つの扉を開くと、目の前にこれから4泊お世話になる部屋があった。

 小さな狭苦しいエレベーターから荷物を降ろして、部屋のドアを開けるとさらに3つドアがあった。目的の部屋番号のドアを開けるとデーンと広がる白壁の美しい大きな空間!リビング・ダイニングキッチンとダブルベッドの部屋が一つとトイレ、さらに2階に続き、ツインが2部屋と大きなバスとサウナがあった。占めて135㎡とのこと。我が家より大きい…。日本の感覚ではアパートとは言えないなんとも贅沢な宿泊空間だった。これなら翌日のパーティも心配ない。窓からはラエコヤ広場(Rakoda Plats)に旧市庁舎(Raekoda)が眼下に一望でき、キッチンからは隣の屋根の向こうにニグリステ教会(Nigliste Kirik)が見える。窓辺に鳩がいて、エルネサクスの曲“Sinu aknal tuvid”を思い出した。

 全員それぞれの部屋(7部屋)に落ち着いて暫くすると、雷と共に滝の様な雨が降り出した。外でウロウロしていた時に降らなくてよかった。いろいろ手伝ってくれたウーラさんは雨の中自宅に戻り、我々は長い一日の旅の疲れと共にベッドへ。雨は夜中じゅう降り続いていたようだった。



2日目  7月4日

 昨晩の大雨のなごりか、まだ厚い雲に覆われた空の下、まずは部屋からラエコヤ広場を見下ろしてみる。まだ人影は少ない。

 さて、今日から忙し、楽しエストニアの日々が始まる。朝食の準備も気分が良い。船内のスーパーで買った黒パンとチーズを並べ、コーヒーで朝食。朝食時間になるとKinga5のダイニングに皆さん元気に集まってきた。

 本日の予定は、野外博物館(Eesti Vabaõhmuuseum)巡り、トーンペア(Toompea)で歌と踊りの祭典の聖火到着セレモニー見物、夜のための買い物、パーティの準備をして、19時からお客様お迎えして交流会。到着早々フル稼働の一日のスタート。

 9:20 宿を出てNunne通りをバルト鉄道駅(Barti jaam)まで約7分歩く。9:40 バス21番に乗り、ロッカルマレ停車場(Rocca al Mare)まで約20分。

 ちょうど野外博物館のオープンと同時に到着。受付はまだ準備が整わないのか、入場者でまたたく間に溢れてしまった。ついでに売店で買い物までしてしまったので、受付混乱。上品な年配の女性二人で仕切っていたが、しかしマイペース。エストニア調。手伝ってあげたくなるほどのんびり。さて、入場料6ユーロを支払い館内へ。いつの間にか日差しがまぶしいほどとなり、真っ青な空の下、緑がどこまでも美しく、空気が美味しい。

        

 左手に昼食場所Kolu Innを確認して左、右と、さながら日本の茅葺き屋根の農家のような佇まいの家々を見ながら風車を目指し、さらに海へと足を運ぶ。微かな潮の香と遠くに見えるタリン郊外の街並みや足元に咲いている小さな野草を楽しんだ。さらに学校、教会と館内を散策し、昼食。エストニアを代表するスープ、Hernesupp(豆のスープ)と黒パンを外のテーブルで食べる。素朴な農家の味がした。美味。清々しい空気に、あー、晴れて良かったと実感する。

       

         

 さて、一巡りしてお腹も一杯にして買い物も済ませ、一同満足して13:00に予約してあったタクシーで旧市街トーンペア(Toompea)へ直行。意外に早く15分ほどで着いてしまった。国会議事堂(Toompea Loss)前にはまだ人だかりも少なく、どうもまだ聖火は到着しないようなので、大聖堂と裏の展望台に皆さんを案内することに。


  定番の二つの展望台で青空の下の旧市街の景色をパチリ。いつもの見慣れた風景だが、この日の青空は格別高く青く、家々の屋根も冬の間に修復がなされていて、美しかった。  

 展望台から議事堂前広場に戻ると、ちょうど良いタイミングで聖火を運ぶ自転車の列がトーンペア通りの坂を登って来ていた。2009年は第一回合唱祭が行われたタルト市から川と海を繋いで船で運ばれた聖火だが、今回は自転車で運ばれてきた。

      

 沿道の観客は多くもなく、少なくもなく、この街のスケールに程良い人数で、国会議事堂にも関わらずピリピリした警備員がいるわけでもなく、ゆったりとのびやかな空気感そのものを保ちながら、それでも多少賑やかな音を立てて旧市街を一周した聖火を運ぶ自転車の列は、国会議事堂の中にゆっくり入って行った。我々も入っていいのかどうか訝しく思いながらも、列に付いて議事堂内の前庭へ進んだ。普段は足を踏み入れることのできない場所だ。

 前庭では、100人ほどの合唱団員たちが丸く輪になって聖火の引き渡し式が行われた。式典もなんとも長閑なもの。堅苦しさなど全く無く、皆笑顔。数曲歌って聖火は次の自転車走者グループに引き渡され、国会議事堂を出て次の地点ヌンメ市場(Numme Turg)へ向かって出ていった。

       

      

 さて、次は本日のメインイベント、19時からお客様を迎える準備。長い足通り(Pikk jalg) から城壁の門をくぐって短い足通り(Lühke jalg)を通ってニグリステ教会を右に見て、Olde hansa(レストラン)で翌日の昼食の席の予約をし、ヴィル門を通ってヴィルショッピングセンター(Viru keskus)へ。黒パン、チーズ、りんご、卵、ワイン、ビール、水、紙コップ等々を購入、占めて130ユーロ。エストニア・日本協会のエルナさんが、重たい購入荷物を車で運んでくれると言うので、ヴィルホテル前で待つ。10分ほどで背の高い相変わらずアーティストらしい、ステキな装いで到着、一生懸命英語で久しぶりに会えた喜びを語って挨拶してくれた。彼女の車は旧市街内に入ることが許可されているとのこと、宿の真ん前まで車を付けてくれた。ありがとう、エルナさん!!重い荷物を持って石畳を歩く重労働を考えると、とてもありがたかった。

 部屋に入ると、すでに準備先発組がおにぎりを握っていた。ベテラン主婦総出で手を動かす。みるみるラップに包まれたおにぎりや稲荷ずし、おでん、焼きそばが出来上がっていく。男性陣にはグラスやお皿を他の部屋(全部で3アパートメントルーム借りた)から持ってきてもらい、部屋をごちそうで飾ったが、日本大使館から大盛りの握り寿司が届き、またエストニア・日本協会から大きなケーキが頂き、豪華さがぐんと増した。

 昨年現役を引退し、現在はエストニア・日本協会の名誉会員のティーア=エステル・ロイトメ先生(前エレルヘイン少女合唱団指揮者Tiia-Ester Loitme)が合唱祭の準備でお忙しい中来てくださったり、甲斐日本大使、三好参事官ご夫妻、領事総会でエストニア訪問中の原田名誉総領事ご夫妻はじめ、エストニア・日本協会のメンバー、この数年の間に来日したエストニアの友人たちや現地に住んでいる日本の方々、他のホテルに宿泊した吉野会長、長谷川顧問に我々20名を合わせて、50名にのぼる人々が一堂に会し、楽しい会話のひと時を過ごすことができた。場所が分からず宿泊先に戻ってしまった釧路会員の岡田さんにも無理言ってもう一度来てもらい、久しぶりにゆっくりお話ができたことは嬉しかった。

       

       

       

 21:30 合唱祭会場の歌の原でリハーサルを終えたTAM(1月に来日したタルトゥアカデミック男声合唱団Tartu Akadeemiline Meeskoor)が宿の前の広場に日本ツアーのお礼をするために集まっていると連絡あり、全員で下に降りると市庁舎の前に日本ツアー用に用意した赤いTシャツを着たTAMの団員がすでに並んでいた。我々が集まると早速演奏が始まり、その楽しそうな歌声で大勢の通りすがりの観光客も集まって、にわかに賑やかなコンサートとなった。指揮者のアロ・リツィング(Alo Ritsing)氏もとてもにこやかで楽しそうだった。

 半分冗談のつもりだったのでしょう、誰かが帽子を裏にして置いておいたので、観光客の一人がコインを入れに行ったら、TAMが何か歌わねばと相談しながらまた歌いだした。観客は大喜び、次々と入れ始め、歌も次々と続いた。そして我々のためにと日本公演の合同演奏で使った“見上げてごらん夜の星を”を歌ってくれた。日本ツアーでお手伝いさせて頂いた日々を思い出し、じーんと心にしみる歌だった。ありがとう、TAMの皆さん。

         

 演奏終了後、TAMの団員の皆さんには宿の部屋に入っていただき、残り物になってしまったが、おにぎりや海苔巻を食べていただきこちらからの演奏のお礼とさせてもらった。

             

3日目  7月5日

 長旅の疲れ、時差、前夜の忙しさにも関わらず、皆さん早起きして、エストニア男声合唱連盟会長のアルヴィ・カロタム(Arvi Karotam)氏のブレックファストセミナーを拝聴しにホテルオリンピアへ。カロタム氏も祭典の準備で忙しい中、我々の為に歌の祭典の歴史や今回の特徴などを詳しく1時間ほどお話してくださった。有意義な企画に感謝。

      

 いよいよ、踊りの祭典(Tantsupidu)鑑賞。前回は雨の中寒い思いをしながら観たダンス、今回は澄み渡った晴天!会場もさぞかし盛り上がるだろうと期待して、1.5㎞の道のりを道順を訊きながら徒歩で会場のカレヴィスタジアムへ。スタジアムが近づくと、民族衣装を来た人たちが大勢会場に向かって行くのが目立ってきたので、それについて歩く。会場入り口はごった返していたが、キャンセルで余った50ユーロのチケットを“50ユーロでいかが!?”とかざすと、すぐにどこかの国の旅行者が手を挙げて近づいてきた。チケット完売で、なかなか手に入らず、このチャンスを待っていたらしい。あちらもこちらも、ありがたや。

        

 会場の席に着こうとすると、一部大きな老人が5名ほど我々の席に座っている。言葉もあまり通じない。何か本当は下の席だけど、足が悪くて行かれないから交換してほしいというような事らしい。下の席と上の席では眺めがかなり違う、だから50ユーロ!なのだが、どうも席を戻してくれる気配はなく、デーンと座ったまま。仕方なく該当する番号の席の人たちは小さくなって皆で余った空間に座った。

 今回はスタジアムの端に建てられたテントの中に設置された生バンド+生歌の伴奏で、2時間見事な踊りが続いた。小さな少年少女から高齢のおじいちゃん、おばあちゃんまでが出演、総勢1万人に及ぶ規模。一人一人がとても楽しそうで、その会場で踊っていることを心からエンジョイしている事が見ている側にも伝わり、会場が一体となって盛り上がった。いつも感じることながら、少年、青年、男性達が女性をサポートしながら軽やかにステップを踏んでいるのを見て、日本の男性とは違うなー・・・・。

        

        

        

 じりじりと照り付ける太陽に日焼け止めを塗りたくり、シミそばかすを気にしながらも大いに盛り上がり、歓声の渦の中全員出演のフィナーレを迎えた。踊る側、観る側、いずれも心から楽しみ、解放された踊りの祭典だった。

 帰り道も踊りを終えて笑顔のダンサー達で一杯。気軽に声をかけてきてくれて、写真を一緒に撮ってもうことができた。

        

   踊りの祭典の全容をYoutubeで見ることができます。 XIX Tantsupidu

 次はパレード。歌の祭典に出演する人、応援する人、それぞれ民族衣装や合唱団の衣装を着て、旧市街の自由広場(Vabaduse plats)から会場の歌の原(Lauluväljak)まで約5kmを行進する。14時に出発とのことなので、少々急いで自由の広場(Vabaduse plats)まで行くと丁度タイミング良く出発するところだった。 著名な指揮者の先生方もかなり高齢になられたのに、全行程歩くのだろうかと心配していたが、そこはやはり敬愛する諸先輩指揮者の方々の為に祭典事務局は馬車を用意していた。さすが! 我らのティーア・ロイトメ先生も馬車に座っていたので、「ティーア!」と呼び捨てにして叫んでみた。きょろきょろするティーア先生に隣に座っていた方(どなたかは分からなかった…)が、「そこそこ」と教えてくれて、ティーア先生こちらを向いて手を振り投げキスまで!楽しい一瞬だった。

        

        

        

        

 次々と続くパレード、2年の準備期間と厳しい選抜を勝ち抜いて祭典出場のチャンスを得た合唱団員やダンスのメンバーは皆イキイキとして、5年に一度のこの時の幸せ感を身体全体で表現していた。ソ連から独立して23年、エストニアはすっかり明るい安心して平和を満喫できる国になったという自信に満ち溢れている気がした。日本がオリンピックを機に変わったいった様子とオーバーラップして見えた。

 パレードは19時頃まで続き、歌の祭典はパレードの最後の一団が到着後始まると言う。実に5時間という長さになる。全部は見ていられないので、昼食を摂りに中世料理を提供するOldeHansaレストランへ。久々ハニービールを壷のようなジョッキで飲む。パンがおいしい。杜松とハーブチーズ、レバーペースト、オニオンジャム、オリーブ、ピクルスなどなどにナッツソースサーモン、イチジクソースのアラビアンフィレ、ジビエソーセージ(熊、猪、鹿肉)、スモークザワークラウト、その他まだまだ。以前食べた時は多すぎると思ったが、今回は美味しくぺろりと食べてしまった。自分の胃が大きくなったのか(まずいかも!)それともお店が量を減らしたか?と思ったところに、偶然このレストランのオーナーが通りかかったので、思わず声をかける。久々の再会。ご家族と共にランチを食べに来たのだった。可愛い息子さんたちが、お行儀よく挨拶しに来てくれた。

 食後、オーナーが新しいグロッサリーストアを3週間前に開店したと、連れて行ってくれた。市庁舎のすぐ裏、日本食も少し棚に並んでいた。知っていたらパーティの用意はここでやったのにと、少々残念に思った。でも次回からは利用させていただけそう。

 長い一日はまだ続く。これからが本番。一旦宿に戻り、夜の準備。せっかく持って行ったダウンコート、持参するかどうか迷う。テレビでは明るい日差しの中、まだ賑やかなパレードを放送している。

 18:30 宿出発、トーンペアの丘を越えたところにあるメリトングランドホテルへ。そこで当日到着したばかりの仙台の参加者(TAMのホームステイをしてくださった方々)と合流してタクシーにて合唱祭会場へ向かう。

 町全体が華やいでいる。会場である歌の原(Lauluväljak)に向かう幹線道路はパレードで封鎖されているので、大回りして歌の原の丘の上の入口付近へ。でも車が渋滞で動けないので曲がりくねった道の途中で「入口はすぐそこだから」と降ろされ、丘の急な草道を下る。

 入口のチケット売り場に並ぶ。ネットでの自由席チケットの値段は6ユーロだったが、当日券は9ユーロになっていた。そうか、ネットで自由席は買えなかったのは、この為だったのかと納得。外国人はネットでしか買えないのだから仕方がない。

 中に入ると、すでに草の上に座る自由席は一杯で立ち見の人垣でステージが見えない。聖火が一階ずつ聖火台を登るごとに、指揮者が顔を出すと歓声と拍手が響き渡る。今何段目だろうと思っているうちに、てっぺんの聖火台に到着、観客も立ち上がり歌の祭典の開始に必ず歌われる“KOIT”の全員合唱、そして聖火台に火が灯された。国歌、イルヴェス大統領のスピーチの後、いよいよ始まる。しかし、全て人垣で見えない…。歌も歓声も遠くに聞こえる。

   *前席に座った平尾さん撮影の写真
        
        

 観念して座っておにぎりを頬張る。ひとしきりお腹が納まった後、人垣の合間からしばしのぞき見。海を背に木々に囲まれたステージに並ぶ人たちが豆粒の様に見える。以前はモニターが両サイドにあって指揮者の様子が映し出されていたが、今回はそれがない。指揮者の様子はまったく想像もできないほど小さい。ま、しかたない、明日は前列で見るのだからと、諦め全景を楽しむことにする。

 後に見た放送の映像では、大統領がスピーチの後段上からスマホで会場の写真を撮っていた。それをまたにこやかな笑みを浮かべてみている国民の映像も映っている。大らかな国民性を垣間見た思いがした。

 そうこうしているうちに運よく目の前の芝が程よいスペースで空いたので、そこを陣取る。斜めなので、少しずつ前に落ちていきそうな感覚を覚えながら、夕焼けに変化していく絶景を楽しむ。座っていると深々と冷えてくる。ここでやっとダウンコートが役立った。無駄ではなかったと自分を納得させる。

        

      

        

 陽が沈み、薄暗くなり始めた空に浮かぶ月を左横に眺め、いつのまにか模様が映し出された天井の下に、ライトアップされた合唱団が浮き上がったように映るステージを見下ろす。聖火がゆらゆらと威厳ある光を放っていた。第一夜のコンサートの最後の曲“SIND SURMANI”が終わり、また明日会いましょうとアナウンスが流れると、アンコールもなく静かに観客は帰って行った。

 会場で困ったのは、ネットが飽和状態で使えなかったこと。約束していたFacebookでの実況中継もまったく不可能。そして携帯電話が一切使えなかったため、散り散りになった同行の人たちとの連絡が取れず心配した。あの広い10万人以上の人であふれた会場だったが、一人、また一人と見つけ出し、何とか皆さんの行動の確認が取れ、コンサートが終わったら電話も繋がるようになり一安心。しかし帰る段階になってタクシーを呼ぼうにも、道路封鎖で行かれないと言う。仕方なくあきらめて歩いて帰る覚悟で海側の幹線道路まで降りていき、歩き始めた。暫く歩いたところで少しずつ空タクシーが戻ってきたので、一部の人はタクシーで、残りは旧市街まで行くことを確認してバスに乗った。長い素敵な一日だった。

  歌と踊りの祭典のホームページとトレーラーは こちら。
     

  第26回歌の祭典コンサート1のエストニア放送実況中継をYoutubeで見ることができます。
      XXVI Laulupeo 1. kontsert "Aja Puudutus"

4日目  7月6日

 ギラギラする日差しに目が覚めると、すっきり晴れ渡った青空。これでもか!というくらい青い。エストニアの国旗の青そのもの。6月のエストニアは異常に寒く、あちこちで雹や雪まで降ったほど寒かったため、参加者の皆さんには防寒対策をしっかり、と再三念を押していた。自分も迷った末ダウンコートまで持って行っていた。でも暑くなりそう…。

午前中フリー、織物作家エルナ・カーシックさんの工房へ行く人、旧市街を散策する人、それぞれ自由に過ごす。

テレビは14時前から合唱祭の会場の様子を映し出し、だんだん盛り上がっていく。電話で呼び出され予定を繰り上げて、西川さんに後を頼んで一人で会場に急ぐ。海側の入口から入場、出演者がカラフルな民族衣装を身にまとい、出番を待っているのか皆のんびりと過ごしている。Tシャツを販売しているテントを見つけて、5枚購入。

メイン会場のステージ側入口はのぞき見をしている人たちで一杯、その向こうに屈強なガードマンが二人、腕を組んで足を広げて立っている。チケットは持っているけど、VIPがいて入れてもらえないのかと半信半疑だったが、前席は指定席の為ただののぞき見の人たちが入らないように陣取っているだけのようだった。チケットを見せたら、OKと言ってあっさり入れてくれた。

会場に足を踏み入れると、はるか向こうの丘の上まで人人人。圧倒される人の数。初めてではないし、10万人以上が集まることも承知しているにもかかわらず、その光景には息を呑んだ。敬愛する指揮者の先生から頂いたチケットの番号の席を探すと、作曲家や指揮者が沢山座っている席のようだ。こんな場違いな席に座っていていいものか、と肩身の狭い思いをしながらも、トヌ・カリユステ氏が隣に着席すると、写真を撮らせてもらったり、再会したネーメ・ヤルヴィ氏やエリ・クラス氏、アールネ・サルヴェール氏などと握手したり、メリットを最大限活用させてもらった。

        

          

前夜は後方でステージを遠巻きにして、スピーカーから流れる音と全景を楽しんだが、この日は迫力あるステージからの歌声を直接思う存分楽しんだ。合唱団一人一人の表情も、指揮者も間近に見える。時折、歌の合間にウェーブが始まる。ステージのてっぺんから始まり、だんだん下に降りてきて、男声合唱団の所に来ると、太い声が響き、ウェーブは観客に移り、自分の席まで流れてくる。ウォーと声をあげて両手を挙げ、次につなぐ。振り返るとどんどん波は後方に移動し、ついに丘の上まで到達すると、会場全体に拍手が起こり、さらに丘の上からまた始まり、ステージのてっぺんまで到達する。会場が一体になる瞬間だ。こうしてエストニアの人々は一体感を高め、歌でこの国を作った誇りを思い起こしている気がした。

混声合唱の部が終わり、いよいよ最後の全体合唱となる。混声合唱だけでもステージ一杯のシンガーが並んでいたのに、さらに1万人が加わる。総勢2万1千人の大合唱で、“Oma saar”“Tuljak”など歌の祭典定番の曲が始まると会場全体がさらに盛り上がり、総立ちとなって歌声が広がっていく。“Mu isamaa on minu arm(我が祖国 我が愛)”は回数を重ねるごとに感傷的な思いは意味が違っていっているように思えた。それはある意味この国の安定感と比例しているのだろう。最終曲の“Kodumaa(故郷)”の前にまた波が始まり丘の上まで続く、そして管弦楽の演奏が始まると、国旗を、帽子を、こぶしを上下に振り上げリズムを取りはじめ、力強い歌が始まる。ステージも観客もリースをかけた指揮者の先生方も、皆一体となって歌う。歌が終わると歓声が響き渡り「次のLaulupiduで会いましょう」とアナウンスがあり、第26回Laulupidu(歌の祭典)は終わった。

       

 終了後、国旗掲揚台の下に来るように言われていたので行ってみると、エレルヘイン(Ellerhein)の少女たちがティーア先生を囲んで集まっていた。引退したティーア・ロイトメ先生を慕って集まった少女たちだった。現役の少女たちに混じって、2009年の日本ツアーに参加していた懐かしい卒団生が二人いた。すっかり大人顔になっていた。

  ティーア先生にはサプライズが付きもので、何が何だか分からない事が起き、最後は粋で素敵なアイディアに涙が出るほど嬉しく、心温かく、感動させられるのが常だったが、今回は何が起こるのだろうと半信半疑で、なされるままに。エレルヘインの少女たちが柔らかく可愛い手で私たちを導き、歩き出した。ぐるぐるぐるぐる、あちこちあちこち、駐車場に行くと車と車の間を縫うように歩き、カドリオルの日本庭園に入っていく。ティーア先生の頭には、私たち日本人のお客さんを日本庭園に招待することに、一つの意味があった。そして小高い所で一人の少女が立ち、ソロで“さくらさくら”を歌い始めた。その美しさに通りがかった人々も思わず立ち止まって聞き入っていた。

 歌い終わり拍手が響き渡った時、公園の管理人が自転車で来て、何か立ち止まって聴いていた人に言った。「ここではこんなことは禁止だ」というような事を言っているようだ。それに対して通りがかりのにわか観客は明らかに反論している。しかも複数で。しかし管理人も負けてはいない。

 その様子を見て、それまで静かに控えていたティーア先生がおもむろに「私の出番だ」と大股でゆっくりと歩き出し、管理人に「@@@@@!」と穏かにしかし威厳を持って何か言った。さすがに大御所ティーア・ロイトメに言われれば、反論もできない。ぐずぐず言いながら管理人は引き下がった。やったーッ!小さくガッツポーズ。

 エレルヘインの少女たちに引かれて、さらに奥へ入ると、丸く輪に石が並べられているところに来た。私たちを囲むようにして少女たちが歌う。あの美しい、懐かしい、柔らかいエレルヘインの歌声。日本でエレルヘインと一緒に過ごした日々が脳裏に浮かびあがり涙が込み上げてくる。サプライズ、サプライズ、さらにサプライズは続く。そしていつもこういう美しい“思い出”をティーア先生は私たちの心に最高のプレゼントとして贈ってくれる。引退した今もそういう素敵なアイディアを持ち、変わらないその魅力を惜しげなく私たちに与えてくれるその人柄を愛おしく思い、この先生とエレルヘインとこの国に出会った幸運と有難さを改めてかみしめたひと時だった。

       

例の管理人は、黄色い自転車を押しながら、言うに言えない納まりの付かない腹の内を抱えた様子で遠巻きにウロウロしていた・・・・。

歌の祭典の歌の渦と静かなエレルヘインの歌声の余韻を耳に残してLaulupiduの一日は終わった。

5日目  7月7日

 華やかな「歌と踊りの祭典」が閉幕し、夢の中のような日々が通り過ぎて、我々のグループの参加者はそれぞれの次の地点に三々五々散っていく。コペンハーゲンに行ってから帰国する人、サンクトペテルブルグへ行く人、タリンにもう数日滞在する人、そして私のグループはTAM(タルトゥアカデミック男声合唱団)の本拠地、タルト市を皮切りに国内旅行へ。仙台のグループと鈴木さん、その他3名が日帰りで同行。ミニバス2台、総勢15名。

    09:30 メリトン・グランドホテルを出発、タルト市庁舎に到着したのは約束の時間をとうに過ぎていた。市庁舎駐車場にはTAMの懐かしい顔の面々が5名待っていてくれた。そしてひんやりとした市庁舎に入ると、若くてハンサムなタルト市長ウルマス・クラース氏が出迎えてくださり、まずはTAM日本ツアーをサポートしたお礼の言葉を述べられた。恐縮、思いがけない歓待に、日本に残してきた澁谷実行委員長や仙台、東京、関西で大いに協力してくださった皆さんを想い、申し訳なく感じながら仙台の遣水さんと共に代表してお礼の言葉を受ける光栄の恩恵に浴した。タルト市のプロモーションビデオを鑑賞し、市庁舎内を拝観し、写真撮影をして市長さんと別れ、市内散策へ。

        

 国立博物館の学芸員が、銅像を前にタルト市の歴史を解説し始める。小さな大学街だが、歴史は古い。数年前訪れた時、タルト大学735周年を祝う松明パレードが行われていたのを見たことがある。短時間では語りつくせないほどあちこちに歴史が残っている。髭の可愛い学芸員の彼は汗をかきながら一生懸命説明を続けている。聞いている方も暑い!

 昼食。市内から20kmほど離れた小さ目の湖のほとりにある、魚料理のレストラン。夏の日差しは容赦なく肌を刺すが、緑に囲まれた、美しい景色を背景に爽やかな風を受けながら川魚のソテー、きのこソース添えとディルが散らされている黄色いポテトとサワークリームとサラダは美味しい!絶品。ライムの香りの冷たく冷えた水も喉越し良く、生き返った心地。

           

昼食後はラーディ(Raadi) 国立博物館へ移動。学芸員の彼はイキイキと語り始めるが、日帰り組は時間が気になり始める。エイヴェレ(Eivere)のマナーハウスを見る予定になっているけど、バスは19時までにタリンに戻らなければならないとのこと。残念ながら、9名はすべて諦めてタリンに直行することに。TAMのメンバーを仙台でホームステイの受け入れをした人たちは写真を撮り、ハグし、別れを惜しんだ。

さて、博物館の広い芝生の庭に残された我々4名。周りを見回しても特にこれと言った博物館らしい建物はない。いくつか事務所のような、倉庫のような建物が立っているだけだ。一応説明は終わったのでホテルに向かうかな、と思ったところが、こっちこっちと学芸員の彼は歩みだす。鍵を開けて一つの建物の中に入ると、そこは温度湿度が完全に管理された貴重な昔の生活道具が所狭しと保管してある保管庫だった。

農具、橇や馬車や船のような乗り物、タンスや戸棚などが、種分けされて陳列されている。研究用のようだ。聞くと、一般は入れない所とのこと、いくつもいくつも部屋の鍵を開けて見せてくれた。改めてTAMの皆さんとその友達の学芸員の彼の親切心に感謝した。ここは且つてのマナーハウス跡地を利用して国立博物館にしているもので、まだ完成している博物館ではない。

 広い庭の一部に池があり、その傍に白いエレガントなガゼボ。その昔バルト・ドイツ人領主の家族や友人が集まってお茶なぞしていたのだろう、なんとも優雅。今は「歌と踊りの祭典」の聖火のセレブレーション地点となっているそうだ。 しかし裏庭に回ると優雅さは一変、鉄の部分が錆びたソ連時代の負の遺産がそのまま残されていた。弾丸の痕も生々しい発砲台。飛んで来る弾の恐怖に怯えながらも狙いを定めて引き金を引く若者たちの姿が一瞬目に浮かんだが、TAMのメンバーの笑顔が発砲穴の向こう側に見えたらそれもかき消され、平和になったエストニアにこの発砲台が遺物になっていることに安堵感を覚えた。

           

 一回りラーディ国立博物館を見学した後、現地で活躍している日本人設計士、林ともみさんのいるチームの作品である建設中の新国立博物館を見に行った。比較的急な片流れの屋根の斬新なデザインだったが、なぜ片流れなのか、バスをぐるっと走らせてもらってよく分かった。それはソ連空軍が使っていた3kmほどの滑走路の先端を押し上げたように、滑走路の一部に同化した作りになっていた。荒涼としたコンクリートの滑走路のはるか向こうに建設中の博物館が見えた。来年秋には完成するらしい。完成したら是非もう一度見に来たい。滑走路の脇にはいくつもの横道が小高く盛り上げられた土手に囲まれている所がいくつもあった。且つてそこは敵から発見しにくいように造られたソ連機の駐機場だったそうだ。こういう過去の負の遺産も含めてこの地域全体が新国立博物館となのだろう。そしてさっき見学させてもらった貴重な生活用品が展示されるのだろう。 

 ハンザホテル(Tartu Hansa Hotel)。13世紀の末リヴォニア時代の古き良きハンザ都市の面影を再現したなかなか良い雰囲気のホテル。エレベーターがなくて、思い荷物を運ぶのが大変だが、レセプションの女性が助けてくれた。しばらくして群馬大学に留学していたピレット(Piret)さんが会いに来てくれた。思いがけずタリンでの4日のパーティに来てくれていたが、ゆっくり話す暇もなかった。お母さんのこと、今の生活のこと、日本にいた時のこと、まだ明るい屋外のテーブルで夕飯を囲みながら楽しい会話が続いた。夜とは言えまだ明るく、昼の暑さが和らいだところで、腹ごなしにスーパーに行って見ることに。時間など気にしないでブラブラと歩く。橋の下の川ではまだ水遊びをしている人の姿が見える。空が広く、穏かで何か幼いころに過ごした、遠い昔の札幌の郊外にいる空気感があり、大きく深呼吸してみる。懐かしさが染み透る。

 スーパーに到着するが、すでに閉店。でも特に目的の買い物があるわけでもなし、悔しさもない。そこでピレットさんとお別れを言って、また皆でホテルに戻る。夕焼けがどこまでも美しかった。

        

6日目  7月8日

 10:00 タルト市スポーツ博物館で開催されている、把瑠都展へ。通常火曜日は閉館日だが、特別我々の為に開けてくれた。ここでも特別手配してくれたTAMの皆さんに心から感謝。本当だったら前日の国立博物館もこの日のスポーツ博物館も入館できなかったところだったのだから。

 スポーツ博物館入口を入ると、すぐに“把瑠都”という漢字が目についた。ガラス越しに把瑠都関の現役の時の品々が見える。中に入ると真正面に把瑠都関の等身大の写真が目をひく。だれもが一緒に写真を撮りたくなるだろう。御多分に漏れず皆で一緒にパチリ。

                    

 後援会等から贈られた“廻し”が5点天井からつるしてある。垂の部分はよく見ていたものだが、全体として見るのは初めて、8mとかなり長いことを知り驚愕。産まれた時に使っていたゆりかごや優勝カップ、殊勲賞、敢闘賞など、把瑠都関の功績の数々がガラス棚の中で輝いている。怪我による早い引退は残念だけど、現役中に成し遂げた成績は大したものだったのだと改めて感心した。今後はこれまでの努力を無駄にならない生き方をして欲しいものだとも思った。

        

        

 一通り展示物を見て、スポーツ博物館を開けてくれた館員にお礼を言い、最後までおつきあいしてくれたTAMのお二人に別れを告げ次の訪問地ヴィリヤンディ(Viljandi)に向かった。

 バスは緑広がる国道92号線をぐんぐん走っていく。周りは長閑な田園風景、時折菜の花がまだ大きく広がっている畑もあり、美しい景色を更に華やかに映しだしてくれている。川あり、湖あり、ところどころに農家があり、たまに牛もいる、ないのは山のみ。

 走ること1時間半ほどでヴィリヤンディ市内に入り、元在日エストニア大使のお父上のお宅に到着。一年ぶりの再会。昨年は画家の梅崎氏が大変お父上にはお世話になっていたので、まずはそのお礼を伝え、心臓の手術後の容体を訪ねるが、顔色も良く大変お元気ですっかり安心してしまった。几帳面で面倒見の良いこのご老人の一人暮らしの家の中は、昨年のと変わらず掃除が行き届き、何一つ曲がって置いてあるものはない。ただ一つ変わっていたのは、テレビの上に梅崎氏の絵が掛けられていたことだった。

 街中のレストランで昼食を共にし、ヴィリヤンディ散策。途中のお店のウィンドウにあった電光寒暖計によると、なんと34℃!証拠に写真をと思ったが、失敗。時刻に変わってしまった。時刻14:04。市場に立ち寄り、蜂蜜を購入してヴィリヤンディ湖に行くと白い砂浜で人々が夏を楽しんでいた。日光浴する人、湖で泳いでいる子供たち、飛び込み台から飛び降りている青年たち。皆真っ赤に日焼けするのもいとわず、炎天下で真夏の太陽の日差しを存分に浴びる幸せを満喫しているようだった。日本人の目からすると、湖の水は必ずしもクリーンではなく、ちょっと中に入るのは勇気がいるが、現地の人々にとっては、貴重な水遊びのできる日なのだろう。

        

        

 坂の上の古城跡に行くと、今行った湖が眼下に美しく見える。小さな野の花もあちこちで可愛く存在感を主張し、全てが自由で自然体そのもの。心の奥底に忘れ去られているノスタルジックな何かを思い起こさせてくれるひと時だった。

        

 再び父上のご自宅でしばし歓談。バスの運転手さんも一緒に楽しんだ。奇麗に準備されたテーブルに山盛りのイチゴがならび、美味しいパンが並び、さらに市場で買ったばかりのハムを載せた黒パンのサンドイッチが並び、どれもこれも美味しいが、如何せん昼食をタラフク食べた後故、目ばかり食べたくてもお腹が受け付けない。少し持ち帰らせてもらい、バスの冷蔵庫へ。楽しい時は早く過ぎ、一人暮らしのお父上にも日本からのゲリラ集団的我々は面白い話相手だっただろうと思ってみる、そう願うところだ。別れ際には目に涙を浮かべておられた。お父様お元気で、また会いましょうと言い残して、バスに乗った。力強く肩を抱かれた手の大きさと優しい笑顔が忘れられない。

 一路この日の宿泊先、Barto Puhkemaja へ。

再び緑に囲まれた国道をひたすら走ること約2時間、草原の中に横長の赤い屋根の大きな建物が見えてきた。18:00過ぎて元大関把瑠都関ことカイド・ホーヴェルソン(Kaido Höövelson)さんのママの経営するファームハウスに到着。大勢の人たちが集っている。把瑠都と奥さんのエレーナさんが玄関にいて、出迎えてくれた。ママもウーラさんとのエストニアでの再会をとても喜んでいた。なんと我々の為に特別料理を作って待っていてくれたとのこと。早速荷物を置いて食堂へ。運転手の彼は軽装になって、食べすぎたから自転車に乗って運動してくると出ていってしまった。

 サーモンのキノコソース。把瑠都夫妻と一緒に食べるが、量が把瑠都と同じかそれより我々の方が多い感じ。昼食をしっかり食べた上、父上の家でもパンを食べたし、これ全部食べたらいくらなんでもまずいなーと思いながら、でも美味しいので心持ち残してたが、しっかり食べてしまう・・・。把瑠都はペロッと食べて、さっさか行ってしまった。エレーナさんとゆっくり食べているとママもやって来て、暫しいろいろとウーラさんを介して歓談、持ってきたお土産を渡し、にわか折り紙教室を始め、ツルの折り方を伝授して楽しんだ。

 熊が出るかもしれないけど、森に行ったらもうブルーベリー採れるかもしれないよ、という言葉に誘われて、森に入ってみる。何度もエストニアに足を運んだし、映像でよく見てはいたが、自分自身で森に入ったのは初めて。なるほどブルーベリーは足元に広がっている。日本にあるような木ではなかった。土は湿気を含み、人が踏み固めている様子はなく、フカフカと腐葉土の上を歩いているよう。所々ジワーとスポンジから染み出るような感じで水が出てくる。そうか、エストニアの大半は湿地であるというのは、こういう事かと実感する。ブルーベリーを口に頬張ると、酸味があるが自然の良い味がした。

        

        

 遠くで、把瑠都と我らの運転手がサウナ小屋から出て涼んでいる姿がとても小さく見える。それほどこの敷地は大きい。前の週にカイドさんとエレーナさんの結婚披露宴が行われたバンケット小屋もある。所々に遊具も点在していて、子供たちの遊びには事欠かない。これで羊や牛がいたらいいねという意見もでた。とにかく芝刈りが大変だとカイドさんが言っているので、芝刈りチャレンジツアーでお客さんに芝刈りをやらせるのもいいだの、まき割りチャレンジもいいだの、色々とアドバイス用アイディアが皆の口から飛び出した。とにかく、日本からお客さんを連れてくる何かの目玉を作らなきゃ、日本人はボーっとできない民族だから。

   冷房設備のない客室は少々暑い。窓を開けると大きな蚊が入ってくる。ただし、暑いのはおそらくこの数日だけなのだろう。しかも日が暮れるとスーッと冷えて来るので、冷房も必要ないことは明らかだ。今日だけは仕方がないと覚悟する。シャワーは共同だけど数は充分あった。

         

 
7日目   7月9日

   翌日も透き通るほどの快晴。ママと写真撮影、把瑠都はどこかへ消えて写せなかった。残念。そのうちエレーナさんが車で登場、さよならを言って、次の町、ヴィンニ(Vinni)へ。

   ヴィンニでは、把瑠都が少年時代柔道や相撲のトレーニングをしていたスポーツクラブで、エストニア相撲協会のリホ・ランニクマーさんと会ってクラブ内を見学させてもらった。日本カフェを作ると言っていたがどうなっているのだろうか、それが見たかった。

正面入り口にBARUTO DOJOと大きな文字で書かれ、その下にJUDO-JA SUMOSAALと書かれたプレートがある。いずれも日本語をそのまま使っている。本来の名称であるVINNI SUPORDIKOMPREKSは小さく書かれている。日本のスポーツに力を入れている事を強調している証拠だ。玄関を入るとすぐに目についたのは、真正面にガラス越しに見えるプールと日の丸と思しき大きな赤い丸。通路の壁には把瑠都関の写真が飾られている。左側には桜のイメージで作られたカフェ。トレーニングルームには日本大使館から贈られたというトレーニングマシーンが沢山置かれてあった。リホさんが以前語っていた通り、日本が満載のスポーツコンプレックスだった。裏には合宿所もあり、実際サンクトペテルブルグから少年、少女のスポーツチームが沢山来ていた。英語の通じないリホさんとは、意思の疎通が十分でないため、どんな活動をしているのかと思っていたが、子供たちへの日本のスポーツ精神を取り入れた指導に真摯に取り組んでいる姿に感心した。体育館の壁にはエストニアの国旗と共に、嘉納治五郎氏の写真が掲げられていた。

          

        

 ヴィンニのスポーツクラブを後にして、バスを一路ラクヴェレ(Rakvere)に走らす。数年前に日本デーが開催された時以来の訪問だが、夏の日差しを浴びて町は明るく軽快な雰囲気が漂っている。13世紀にデンマークの要塞として造られたラクヴェレ城に行く。中に入ると、中世の様子を再現したアトラクションの数々が楽しく設定されている。騎士達が行進してきて、実際に大砲にわらを詰め、ドーンと巨大な音を立てて大砲を打ったり(もちろん空砲)、アーチェリーを楽しめたり、世界の刀の展示があり、実際に持つことが出来たり、鎧の重さを体験できたり、色々な楽しみがあり、童心に返って楽しむことができた。日本デーの時に日本人と会ったことがあるというガイドさんが、日本人だからと帰宅時間にも関わらずボランティアでお城の中を案内してくれた。青空の下にそびえるラクヴェレ城は戦禍で破壊された部分を残し、丘の上にそびえていた。

          

           

 さてさて、旅も終盤に近づき、余す時間で何をするか?運転手さんにアドバイスを求め、ラヘマー国立公園内のヴィフラ荘園(Vihula mõis)に行くことになった。且つてエストニア人が農奴や小作人だった時代、領主として地域を治めていたバルト・ドイツ人の館は、その優雅でロマンチックな佇まいに目を付けられ、今では高級ホテルやSPAや博物館になっているところが多い。昔のリヴォニア地域を含め、現在のエストニア全土には1200を超える荘園が残されているらしい。 現存するのは17世紀以降の建物のようだが、それ以前のものは中世の要塞を兼ねた石造りのがごく一部残されているだけで、木造のマナーハウスは全て残っていないらしい。戦争が繰り返されてきた土地柄、至極当たり前と言えば当たり前のことだ。

   大きな池のあるヴィフラマナーハウスの庭を散策する。北の国の緑は柔らかく、花の色はなぜか濃く目に鮮やか。贅を尽くしたマナーハウスは美しく改装され、居心地よさそうなホテルになっている。いつか泊まってのんびりしてみたいものだ。

   運転手さんが、海の近くにちょっと面白い昔風のレストランがあるので案内するというので、そこでランチをすることに。茅葺き屋根の建物の中であれこれ珍しいものに挑戦する。どれも美味。アメリカ人らしき一団もワイワイ楽しんでいた。

  食後、花と緑が豊かな庭のある別荘らしき家並みの間を抜けて海辺へ歩いて行く。こんなに暑く、爽やかで明るい時は短い事は百も承知で、冬は厳しいだろうと想像するものの、やはり今の快適さからここの住民が羨ましい。

  お土産の定番の杜松の木(Kadakas)の木を教えてもらう。想像していたより細く華奢な樹木だった。フィンランド湾にあるラヘマーの海岸は氷河が運んだ丸みを帯びた岩ほどの大きな石が景色に味を添え、湖かと思うほど波もなく穏かだ。2組の家族が海水浴を楽しんでいる。10年ほど前入ったこの海の水の飛び上るほどの冷たさを思い出し、水に手を入れてみる。浅瀬ではあるが、まったく以前の記憶を覆されたような気になってしまうほど、ぬるい!沖縄の海と変わらない。地球温暖化は確実にこの国の人の生活を替えている・・・と大げさな事を考えてみる。

          

 様々なエストニアの風景を満喫して、一抹の淋しさを感じつついよいよタリンへ戻る。

エストニアのヌンメ・カリュというサッカーチームで活躍している和久井秀俊選手と時間があったら会いたいと約束していたが、練習に出発することになったとメールが入る。何回かメールのやり取りをするが、ぎりぎりのところで出発時間に間に合わず、諦め。残念。練習のお邪魔もしたくないので、予定を変更して、翌日午前中に取りに行くことにしていた会員の皆さんのバッジ引き取りに行った。が、なかなか複雑で分かりにくい場所に其の会社はあったので、バスの運転手さんに連れてきてもらって正解だった。その会社の展示スペースには国旗やバッジや民族衣装柄のグッズが所狭しと展示されていた。歌の祭典やパレードなど、いたるところでエストニアの国旗が振られていたが、あの国旗は全てこの会社で作られているのかと、目を見張り、ついついいろいろ買い物をしてしまって、早く引き上げたいだろう運転手さんを待たせてしまった。申し訳ない。

 お疲れ様で、この日の宿泊先ヴィルホテルに到着。運転手さんにお礼を言って別れるが、彼もとても楽しかったとエストニア人らしく遠慮気味の笑顔で挨拶してくれた。上品で好感度の高い運転手さんだったが、トイヴォさんというだけで、苗字を聞きそびれた。

   ホテルのロビーは観光客でいっぱい。それまでの静かで長閑なエストニアから一変。レセプションの女性も愛想が足りなく、都会であることを思い知らされる。ガラスの大きな部屋の窓からは旧市街と港がパノラマのように見える。ヴィルホテルはこれだけが取り柄といつも思う。数年前より内装がきれいに改装され、居心地は悪くないし、便利な場所にあるので、翌日帰る身にはありがたいが。

8日目  7月10日

 いよいよ帰国の日。8人で成田を出発したこのツアー、現地で3人増え、他のグループとも合流したり、4日のパーティでは実に50名もの人たちと交流したり賑やかだったが、祭典終了後それぞれの旅程に従って次の地へ移動したため、この日最後に残ったのは2人のみ。お世話に奔走してくれたウーラさんと一緒に3人で4日のお礼を述べに日本大使館へ。4日がもうだいぶ昔に思える。和久井選手のユニホームが飾られていた。昨年移植された桜の木も、問題なくスクスクと枝を伸ばしていた。

 旧市街のラエコヤ広場で中世の市場が出ているというので、行って見る。賑やか。以前某テレビ局の番組の翻訳の手伝いをした時に映像に出ていた、声の良い船造りの男性がいた。今年は船ではなく、紡ぎ車のようなものを操っているので聞いてみると、船にタールを塗る作業の展示はタールの匂いがキツイとタリン市から言われたのだそうだ。かわいそうに。

広場の中心に行くとさまざまなエストニアの工芸品を売っている屋台が沢山出ている。売り子は皆中世の装いをするのが出店条件の一つとなっていて、その場の雰囲気を盛り上げている。昨年はそこで手編みの指人形を買ったが、そのおばちゃんは残念ながらいなかった。日本の雑誌に掲載されたPooPankのオーナーの息子で木のツールデザイナーの彼を見つけ、写真をパチリ。彼も覚えていてくれた。ちょっと嬉しい。

        

 そんなこんなで午前中を過ごした後、最後の約束の友達アンニさんと会う時間となり、Vabaduse Platsへ。2年ぶりくらいで会った彼女はますます美しくなっていた。芸大で鍛金術を勉強していた彼女の作品を把瑠都関が横綱になったらお祝いに贈ろうと言っていたのに、とうとう実現せずに終わってしまった。アンニさんは今日本大使館で仕事をしているとのこと、日本との仕事が出来てうれしいと語っていた。

 荷物を引き取り、レンナルト・メリ空港へ。ソーマーへ行っていた岡安さん、しばらくタリンに滞在していた岡田さんと合流。空港ビルは前年よりまた大きく、充実していた。少しお腹が減ってきたので、残り少ないユーロを使ってピザを食べていたら、搭乗が開始され、慌てて食べ残しをペーパーに包んで搭乗。タリンーヘルシンキの飛行機は小さいので、拒否された2個目の手荷物は場所塞ぎになってしまった。しかし、高度を上げて水平飛行5分で高度が下がるこの便はあっという間のフライト時間。少々の我慢。

 そして人ごみのヘルシンキ・ヴァンター空港へ。そこでコペンハーゲンに行っていた夫妻と再会。「楽しい旅でした。エストニアに一生懸命になる理由が理解できました」と嬉しいコメントを頂いた。あぁ、皆さんに楽しんで頂けるツアーになり、また無事に終えることが出来て本当に良かったと、心からそう思った瞬間だった。

 心地よいJAL機に乗り、安心感と疲れもあってか、ビデオも集中できずひたすら寝たようで、気が付いたらもう2回目の食事が出てきて、あっという間に蒸し暑い成田空港に着いていた。あんなに楽しみにしていた旅が今や過去の思い出となり、現実の生活にまた舞い戻った。