参加できなかった方のための
日本・エストニア友好協会創立20周年記念

エストニア文化セミナー・レポート



 日本・エストニア友好協会は、各分野に精通した講師を招き、 歴史、文化(言語・音楽・アート・建築・映画など)を多方面から深く掘り下げて学び、 エストニアの魅力を体感することを目的とするエストニア文化セミナーを、開催しています。

 このページでは、セミナーの様子をレポートします。

目次

  1. 第1回目

  2. 第2回目

  3. 第3回目

  4. 第4回目

  5. 第5回目

  6. 第6回目



    第6回目  7月21日(木) 15:00〜17:00 

      タイトル: The Singing Revolution「歌う革命」上映会

      会 場 : ラピュタ阿佐ヶ谷

    ソ連のペレストロイカを機に1980年代後半に少しずつ、慎重に進められた独立への動き、ソ連軍の制圧に犠牲者が出たリトアニア、ラトビア。次はエストニアかと思われたが、エストニアは人々の歌の力で一滴の血も流さずに独立を獲得した。どのようにして運動が進められ、どのようにして西側諸国にバルト三国の存在を知らしめることが出来たか。 歴史事実を現場にいた人々のインタビューを混じえた感動のドキュメンタリー映画を鑑賞した。

    The Singing Revolution紹介サイト 

    WikipediaでSinging Revolutionを見る


    第5回目  7月13日(木) 18:30〜20:30

      タイトル: 国際関係の中のエストニア

      講 師 : 大中 真  桜美林大学准教授

    エストニアをもっと深く知ろうという目的で始まったエストニア文化セミナーも好評のうちに第5回目を迎えた。 周辺国に侵略され続けたエストニアを知る上で欠かせない、国際関係史。参加者一同、貴重な資料のコピーを手に 充実した講義を拝聴した。

    講義内容

    1.歴史的な見方と政治的な見方
      (1)歴史家が政治を動かす「歴史家共和国」
      (2)「3つの占領期間」歴史観

    2.ドイツとロシアとの間
      (1)北の十字軍(14c)→ドイツへ 北方戦争(18c)→ロシアへ
      (2)ロシア革命(1917) 独立戦争(918-1920)
      (3)第二次世界大戦→ソ連邦へ(1940.6) ドイツへ(1941) 再びソ連邦へ(1944/45)
      (4)独立回復、EU及びNATO加盟(2004)  統一ヨーロッパとロシアとの境界線に

    3.日本とのつながり
      (1)幕末以降
      (2)パリ講和会議(1991-1920)
      (3)スティムソン主義or不承認制作(1932)
      (4)大戦前夜の外交官出張所開設と閉鎖(1939-1940)
      (5)独立回復後、双方の大使館解説(在タリン1993、在東京1996)

    おわりに
      エストニア国家の特徴・・・法的連続性の強調(国際法)
      エストニア民族の特徴・・・文化としての合唱の力(特に「歌いながらの革命」)

    上記講義内容のまとめ資料はこちらで見る事が出来ます。





    第4回目  6月21日(木) 18:30〜20:30

      タイトル: エストニア語はどんな言語?

      講 師 : 松村 一登氏  東京大学教授

    今年5月に国際語学社から発行された語学教本「まずはこれだけエストニア語」の紹介を兼ねて、 松村先生にエストニア語について語って頂いた。発音モデルとして、大使館アタッシェの ルウィット・モルテルさんにも参加して頂いた。

    この教本は松村先生と現在タルト大学で日本語の教鞭をとっている、宮野恵理さんの共著。 モントネン領事夫人、アンナ=マリアさんによる発音モデルCDも付いている。

    導入編としてエストニア語の変遷やアルファベット、発音の特徴、基本単語が紹介され、 構文編では、基礎的な文法が解説されている。実用編になると、エストニアに旅行に行った時に 使える簡単な文章が並んでいて、読みやすく編集されている。ところどころに挿入されている 写真(カラ―でなくて残念)からエストニアの生活が垣間見られて興味深い。

    エストニア語のアルファベット

    A a*   アー     P p   ペー
    B b   ベー      R r   エル
    D d   デー      S s   エス
    E e*   エー     Šš   シャー
    F f   エフ      Z z   ゼット
    G g   ゲー      Ž ž   ジェー
    H h   ハ−     T t   テー
    I i*   イー      U u*   ウー
    J j   ヨット      V v   ヴェー
    K k   カー      Õ õ*   オー
    L l   エル      Ä ä*   アー
    M m   エム     Ö ö*   オー
    N n   エン      Ü ü *   ユー
    O o*   オー

    英語のアルファベットに慣れている日本人にとって違和感を覚えるのは、ティルデ(〜)やウムラウト(・・) が付いている文字があることに加えて、C・Q・W・X・Yがないこと。つまりエストニア語にはこれらの文字で 始まる単語はないので、エストニア語辞書にはC・Q・W・X・Yは見当たらない。ただし、現在は外来語もあるので、 学校ではアルファベットにはこれらの文字も入った形で習うとの事。(参加エストニア人談)その場合通常の 英語の並びと同じとなり、X・YはÜの後に付け加えられる。ZだけがなぜかSとTの間、ということになる。

    エストニア語では、原則的に綴りと読みが1対1に対応するので、発音記号を付ける必要がないが、 日本人用にカタカナで表記したり、地図上の地名や固有名詞を日本語で書いたりする場合は母音が9つの エストニア語に無理やり母音5つの日本語を当てねばならないので、ある程度無理が生じる。正しい発音を カタカナで表すのは難しいということから、会話を学びたい人は、カタカナ表記に頼らず直接エストニア語 を読むことに慣れるのが肝心だと感じた。

    OとÕとÖ、AとÄすべてカタカナでオー、アーと表示してあるが、すべて音が違うので、CDやエストニア人の 発音を聴いて正しく覚える必要があるだろう。

    しかしながら、地名や固有名詞表記には一定のルールが必要だというのが松村先生の意見。エストニアについて 旅行本などが出回っている現在、様々な表記があったり、すでに固定されてしまっているものもあるので、 ある程度は仕方ないかもしれないが、「まずはこれだけエストニア語」では、松村先生のルールに従って すべて表記してあるとのこと。

    興味深かったのは、エストニア人の耳には、日本語のGとK、DとTを聞き分けにくいということ。 「餓鬼」「鍵」「柿」が同じように聞こえるのだそうだ。把瑠都関の名前もエストニア語ではKaidoだが、 日本語で凱斗(がいと)となっているのも、そんな理由から来ているらしい。

    その他エストニア語はフィンランド語と同じ語族で似ているという事がよく言われるが、言語学者松村先生からすると、 「たいして似ていない」とのこと。例を挙げて解説を受けた。たしかに聞こえてくる音はなんとなく似ている と感じていたが、単語一つ一つ挙げてみると、かなり違う事が分かった。日本語が韓国語や中国語と似て非なる ものであることと同じだった。

    現地でエストニア語を使って動きたいと常に思いつつも、エストニア人の英語習得度の高さに負け、すぐに安易な 英語で事を進めてしまう意思の弱さを克服する為にも、「まずはこれだけエストニア語」を一から勉強しするのが良いかもしれない。

    「まずはこれだけエストニア語」出版社サイト
    松村一登教授のエストニア語サイト


    第3回目  5月31日(木) 18:30〜20:30

      タイトル: ソフィ・オクサネン著 「粛清」をひも解く

      講 師 : 松村 一登氏

    今回のセミナーの内容は、フィンランド人の父とエストニア人の母を持つ、 若手作家ソフィ・オクサネンの著書で今年2月に日本語出版されたエストニアを 舞台にした文学作品の読み方解説だった。

    2008年、ソフィ・オクサネン自身3作目にしてフィンランドでベストセラーとなり、たちまちフィンランディア文学賞、 北欧理事会文学賞、さらにEUからEuropean Book Prize、そしてフランスからフェミナ賞外国語文学賞と 数々の賞を受賞し、世界41カ国で翻訳が進んでいる作品、原語タイトル「Puhdistus」、英語タイトル「Purge」がその作品。 日本語タイトルは「粛清」と訳されている。ちなみにエストニア語では「Puhastus」。

    「粛清」と聞いてソ連時代に行われていたソ連によるシベリア強制送還や虐殺などを連想していて読み始めたが、 どうもそれだけではない事が、最初の章のショッキングな始まり方で推測がついた。 ドラマチックな展開になりそうな予感に、多少翻訳独特の違和感を感じながらも、ストーリー展開への興味が勝り、だんだん引きこまれていった。

    比較的すらすらと読みやすいかったのは、もともと2007年にフィンランド国立劇場が上演した、戯曲から書かれたものとの先生の解説で納得。 しかしながら、小説を読み進めていくと気づくが、映画のフラッシュバックのように時代が交叉し始め、 そのうちよくわからなくなってくる・・・。
    そして、最後の章でえッ!と頭を叩かれたような感覚を覚え、年代を追って再読しなければならない衝動にかられる。

    そんな衝撃的な作品だった。

    「粛清」は、ソ連から再独立を果たした翌年1992年の西エストニアの田舎町Koluvere (地図:TallinnからHaapsaluに続く国道を3分の2ほど西へ向かいRistiで南下10km)が舞台。

    ソ連統治時代を重い秘密を抱えて生き延びた老女Aliideが、Koluvereの家の庭に倒れている若い娘を見つけるところから 話しが始まる。娘はロシアンマフィアに騙されてウラジオストックを出て、ベルリンで娼婦にさせられていたZara。 この二人の女性の関係と遠い過去の出来事が、ある男性の残したメモを挟みながらだんだんと明らかになっていく・・・。

    作品の舞台となり、当時の圧政下で起こった苦悩の実情を描いていると絶賛する世界的な評価に エストニアでは賛否両論だったようだが、実際には前記のような大きな賞を次々に獲得し、多くの言語に 翻訳されほど文学的な評価は高い。また、近々映画も完成とか、日本で観られるのはいつになるか、 どのように映像化されるのだろうか、興味あるところだ。

    邦訳本では章ごとに年号と場所が書かれている。それによると舞台はラーネマーとあるが、 エストニア語でLäänemaaは西エストニアのことで、市町村名ではなくエストニアを大きく分けて エストニアの西側ということになり、おおざっぱ過ぎる、という解説があった。 そのほか、主人公の名前アリーダも原作ではAliide(アリーデ)など、 ところどころもう少しエストニアを調べて翻訳してくれていたら・・・と気になる箇所も見当たるが、 英語からの英文翻訳者の邦訳なので、ある程度仕方がないと細かいところは気にせず、 小説として読むべきだろうというのが、松村先生の持論と解釈した。

    ところどころ、合唱団の話しや歌詞がでてくるところなど、エストニアらしさも随所に見られ、親近感も持てる。 松村先生の解説によるKoluvereにある古城のコルヴェレ姫伝説や、つるべ井戸の日本の井戸との共通点や、 ソ連時代に使われていた湯沸かしコイル(作品の中ではコイルヒーターと訳されている)についての、 説明も加わり、さらにイメージがつかめた。

    読まずにセミナーの臨んだ参加者には少々難解だったかもしれないが、 興味深い内容の作品である事が明らかとなったと思う。また読み終えて参加した人には、この作品の根底にある気づかなかった深い面白さがプラスされ、もう一度読んでみようと思うきっかけをこのセミナーから与えられたのではないだろうか。

    私自身、記憶力に自信が無くなってきたこともあり、時系列に沿った読み方で再度読み始めているが、 明らかに初回とは違った興味深い要素を多々発見できている。   


    エストニアで放送されたラジオドラマを聴く予定でしたが、 事務局の音響設備使用方法勉強不足で実現できず、申し訳ありませんでした。 下記で聴く事が出来ます。
    ロシア生まれで片言のエストニア語のはずのZARAのエストニア語がうますぎるとの 松村先生のコメントがありました。その辺も楽しんで聴いてみてください。

    第1部: Raadioteater: Sofi Oksanen   "Puhastus" I (放送日 2011/08/08)
    第2部: Raadioteater: Sofi Oksanen   "Puhastus" II (放送日 2011/08/09)
    第3部: Raadioteater: Sofi Oksanen   "Puhastus" III (放送日 2011/08/10)
    第4部: Raadioteater: Sofi Oksanen   "Puhastus" IV (放送日 2011/08/11)
    第5部: Raadioteater: Sofi Oksanen   "Puhastus" V (放送日 2011/08/12)

    当日の資料は松村先生のブログで読む事が出来ます。邦訳が出る前に書かれています。

    ソフィ・オクサネンについて
    Puhdistus「粛清」について
    ラジオドラマ「粛清」について
    湯沸かしコイルについて1
    湯沸かしコイルについて2
    コルヴェレ城について
    はねつるべの井戸について

    邦訳でのこの作品は、奇しくもまだまだエストニアについて正しい知識が行き亘っていないことも、 明らかになった作品でもありました。ソフィ・オクサネンをロシア文学の正当な継承者と称した
    出版本の早川書房部の解説に、「エストニアはバルト三国の一国であり、フィンランドのにある。」 と書かれていたことには、誤植?かもしれませんが、驚かされました。正しい知識普及に今後も微力ながら力を注が ねばと考えさせられました。

    ソ連の圧政下で生活していたエストニア人の様子を捉えたセミドキュメンタリー作品として読むか、単純にサスペンスとして読むか、 ご自身で読んでみてはいかがでしょう!

    ソフィ・オクサネン公式ホームページ:http://www.sofioksanen.com/




    第2回目  5月11日(金) 18:30〜21:00

      タイトル: エドゥアルド・トゥビンの生涯と作品

      講 師 : 秋場 敬浩氏

    渋谷区文化総合センターでのセミナーも、2回目をむかえた。
    今日の出席者は、12人。



    エドゥアルド・トゥビン(1905〜1982)

    エストニアを代表する作曲家。今年は没後30年にあたる。 エストニアのペイプシ湖畔のトリラ村に生まれた。 その生涯は、2つの世界大戦に大きく翻弄された。 彼の音楽は、民族的な旋律と伝統的な音楽芸術が絡み合ってさらに 独特のリズムと現代的な音がひろがりを持って響き合っている。




    幼年〜青年時代
    1905     生誕
    1912 (7才)  兄ヨハネスが21才で世を去る。楽譜といくつかの楽器をエドゥアルドに残した。
             独学でバイオリン・フルート奏法を習得。
    1914 (9才)  オーストリアーハンガリー同盟による紛争がセルビアで勃発。
             第一次世界大戦の引き金となる。
             エドゥアルドは、トリラ小学校でバラライカ音楽隊に属しフルート、ピッコロを担当した。
    1919 (14才)  タリンとタルトゥに、アルトゥール・カップヘイノ・エッヘルによって、
             高等音楽学校が設立される。

    タルトゥ時代ー音楽家への道
    1920 (15才)  エストニア独立戦争終結。タルトゥ師範学校に入学。
    1924 (19才)  タルトゥ高等音楽学校に入学。生涯の恩師ヘイノ・エッレルに学ぶ。
    1925 (20才)  初めての作品 歌曲「夕べに」を出す。
    1929 (24才)  父死去。<管弦楽曲「エストニア民族部曲集」作曲>
    1930 (25才)  タルトゥ高等音楽学校卒業。 リンダ・ピルンと結婚。
    1933 (28才)  <「交響曲第1番」作曲>
    1934 (29才)  プロコフィエフがエストニアを訪問。親交をもつ。
    1937(32才)  <「交響曲第2番」伝説 作曲>
    1938 (33才)  ブダペストにて、コダーイ、バルトークに会う。
    1939 (34才)  第二次世界大戦勃発。
    1940 (35才)  エストニアは、ソヴィエト連邦の支配下となる。
    1941 (36才)  リンダと離婚。エリカと再婚。
            ソヴィエト当局によるエストニア人の大量シベリア送還始まる。

    スウェーデン亡命時代
    1944 (39才)  トゥビン一家スウェーデンに亡命。
             <「ヴァイオリンとピアノのための前奏曲」作曲>
    1946 (41才)  母死去。<「交響曲第5番」作曲>
    1950 (45才)  <ピアノソナタ第2番「オーロラ」作曲>
    1961 (56才)  ストックホルムの市民権を得る。亡命後初めて、エストニア訪問。
             ヘイノ・エッレル、マルト・サールに再会。タリンで指揮者ネーメ・ヤルヴィに会う。

    ハンデンでの晩年
    1966 (61才)  ストックホルムの近郊、ハンデンに転居。
             息子エイノはトルコに渡り結婚。<交響曲 第8番 作曲>
    1970 (65才)  エストニアの音楽の父ヘイノ・エッレル氏死去。
    1973 (68才)  <「交響曲第10番」作曲>
    1979 (74才)  健康状態に陰りが現れる。
    1981 (76才)  ボストンにてネーメ・ヤルヴィ指揮による
             <交響曲第10番>を聴く。
    1982 (77才)  11月17日 77才にて死去。

    エドゥアルド・トゥビンの年譜に沿って、秋場氏の詳しい解説が始まった。
    エストニアの作曲家で、ヘイノ・エッヘル門下である。生涯に11曲(最後は未完)の交響曲を作曲した。エストニア最大の作曲家と言われている。 その天才的な才能と、数奇な運命 (1944年エストニアがソ連に占領されるとスウェーデンに亡命し、亡くなるまでストックホルムで活動を続けた) にも興味が深まった。 途中で10曲程のCDを楽しみながら、講演はどんどん熱を帯びていった。
    彼に影響を与えた人々にも驚いた。音楽家として有名な人が多く、現代にも名を残している人ばかりだ。逆に、そのような人々に深い信頼を得ていたのだから、エドゥアルド・トゥビンの 偉大さがうかがえる。
    私の知る演奏家秋場氏とは一味もふた味も違う、トゥビンから魂を受けた秋場敬浩氏がそこに居た。
    これにより、6月5日の「トゥビニアーナ」演奏会が楽しみになってきた。   





    第1回目  4月26日(木) 18:30〜21:00

      タイトル: エストニア国歌を歌おう! エストニアってどんな国?


    18:30、教室が満杯になりました!

    エストニア国歌の映像が流れると、参加者の中には、手元に配られたエストニア国歌の楽譜とエストニア語の歌詞を見ながら 口ずさむ人もみられ、タサ大使から何が聞けるのか期待が膨らんでいる様子が見て取れました。

    国歌が終わるとワインで 「乾杯!!」 「Terviseks!」

    思いがけず大使館から提供された美味しいワイン乾杯で、エストニア文化セミナーの始まりを、良い形でスタートする事ができました。大使館の ご協力に感謝です!

    引き続き、タサ大使によりおおまかなエストニアの歴史を含めた、国歌の説明が始まりました。

    20:00 10分間の休憩の後、第二部は大使館アタシェのルウィット・モルテルさんにより、エストニア情報をお話し頂きました。

    内容は下記の通りです。

    第一部 エストニア国歌について

    現在の国歌は1869年に、タルトゥ(当時はドルパトと呼ばれていた)でヨハン=ヴォルデマル・ヤンセン(Johann Voldemar Jannsen)が、 フィンランドで20年以前に作曲された、フレデリック・パシウス(Fredrik Pacius)の曲「我が祖国」 (Maammee)に詞を付けて仕上げた曲。

    “Mu isamaa, mu Õnn ja rõõm”(わが祖国 わが至福と歓喜)というタイトルが付いている。

    1710年、大北方戦争でそれまでエストニアを支配していたスウェーデンがロシア帝国に敗北し、 エストニアはロシア帝国の統治下に置かれたが、 ロシアは引き続きバルトドイツ人貴族層にプレッシャーをかけながら地域を治めさせていた。

    1816年、それまで農奴として、ドイツ人に所有されていたエストニア人に、土地所有が許され、 農奴制度が廃止となったことで、徐々に民族意識が目醒め始めた。

    1830年代、タルトゥの医師、フリードリッヒ=ロベルト・ファフルマン(Friedrich Robert Faehlmann・1798-1850)は エストニアの言語・文化に大いに関心を寄せ、1838年にOpetatud Eesti Selts(Learned Estonian Society)創設に 力を注ぎ、エストニア各地の民話を集めた。

    ファフルマン死後、後輩であった同じくタルトゥの医師であり文学者であったフリードリッヒ=レインホルド・クルツヴァルド (Friedrich Reinhold Kreutzwald)が、集められた民話をもとに 壮大なエストニア民族叙事詩“カレヴィポエグ”(Kalevipoeg)を完成させた。

    初版は検閲により活字になることはなかったが、1857年から1861年にかけてOpetatud Eesti Seltsに連載され、 翌年には一般に読みやすい形で第三版が発刊された。

    さらに、ヤンセンはパシウスのメロディーに乗せて、その“カレヴィポエグ”から祖国を賛美する詩 を書き、“Mu isamaa, mu õnn ja rõõm”ができあがった。

    1918年にロシア帝国から独立したエストニアは、この曲を1920年に国歌と制定したが、1940年、ソ連に併合されている間は 歌う事は出来ず、1991年の再独立後からふたたび国歌として歌われ、今に至っている。



    Mu isamaa, mu õnn ja rõõm

    Mu isamaa, mu õnn ja rõõm,

    kui kaunis oled sa!
    Ei leia mina iial teal
    see suure, laia ilma peal,
    mis mul nii armas oleks ka,
    kui sa, mu isamaa!

    Sa oled mind ju sünnitand
    ja üles kasvatand;
    sind tänan mina alati
    ja jään sull' truuiks surmani,
    mul kõige armsam oled sa,
    mu kallis isamaa!

    Su üle Jumal valvaku
    mu armas isamaa!
    Ta olgu sinu kaitseja
    ja võtku rohkest o~nnista,
    mis iial ette võtad sa,
    mu kallis isamaa!


    日本語     翻訳 松村一登

    わが祖国 わが至福と歓喜

    祖国はわたしの幸福と歓喜
    あなたは本当に美しい
    見つけることはできない
    この広大な世界のどこにも
    あなたほど愛しいものを
    わたしの祖国よ

    あなたはわたしを生み
    そして育てた
    わたしはいつまでもあなたに感謝し
    死ぬまで裏切らない
    わたしのこの上なく愛しい
    愛する祖国よ

    神があなたを見守ってほしい
    愛する祖国よ
    神があなたの庇護者となり
    あなたを大いに祝福してほしい
    あなたがいつ何を行おうとも
    愛する祖国よ


    *
    翻訳は松村教授のエストニアとエストニア語に関するホームページMaarjamaaから掲載させていただきました。
    Maarjamaa:http://homepage2.nifty.com/kmatsum/index.html


      第2部 エストニア概説

    国旗(Eesti lipp)ついて

    色の持つ意味
      青:エストニアの上に広がる空の青
      黒:エストニアの大地・エストニアが背負ってきた過去の運命・悲運
      白:努力、勤勉、純粋、献身的な心、民族の明るい未来

    歴史
    1880年代にタルト大学の学生連盟の旗として作られたが、1918年2月24日にエストニア独立宣言で国旗として使用、 11月に正式に導入され、初めてタリン市トーンペアのPikk Hermannに掲げられたのは1918年12月。

    1940年6月21日、突然Pikk Hermannに掲げられていた三色旗が降ろされ、翌日には赤旗に変わっていた。

    ナチスドイツに統治された1941年から1940年の間は、民族の旗として三色旗の使用は認められたものの、ソ連時代は三色旗 は使われず、 エストニア・ソビエト社会主義共和国の旗が掲げられていた。

    ふたたび現在の青・黒・白の三色旗がPikk Hermanに翻ったのは1989年再独立を目指していた時で、最終的に 国旗として正式に復活したのは1990年8月だった。

    紋章(Riigivapp)について

    国の紋章
    デンマーク王からタリン市へ贈られた紋章で、各支配者たちはこの紋章を使ったが、ソ連だけは使わなかった。
    1925年から国の紋章となった。

    国の鳥
    自分で作った巣に戻る鳥、ツバメが国鳥として大切にされている。
    ツバメを殺すと目が見えなくなるとか、ツバメが地面近くを飛ぶと雨になるという言い伝えがある。

    国の花
    草原に力強く咲く雑草としての矢車草が国花。 青色を作る材料として使われたり、ハーブ、薬草としても使われる。