高橋 清彦
タリン市立ヤルヴェオッツア高校教諭(日本語教師)
お懐かしい釧路の皆様!
皆様がエストニアの当高校に来られてからもう6年の歳月が経っております。当高校で皆様の御相手をした4人の生徒のうち、アニッカ・アントフと言う女生徒は国立タリン教育大学の学生身分ながら、もう当高校で彼女の専攻である「心理学」を活かせて日本で云う「修身?」の科目を担任する先生になっております。今でも廊下や教員室で彼女に会うと「こんにちは」と日本語で挨拶をしてくれます。活発な女生徒だったマリオン・カルロは今は日本の九州別府市にある「立命館アジア太平洋大学4年生」に留学中で、日本語も勿論上手になりましたが、韓国に興味を持ち、韓国語をマスターして、今年の9月には日本の何処かの大学院で更にアジア太平洋地区の勉強を深めたいと奨学金を鋭意探しております。ラッセ・シルド君は兵役(当国では青年男性の義務)を終了して目下は国立タリン教育大学の英文科で勉学中です。往年「ラッセは英語が全く出来ない」と当高校のヴェテランの英語の先生を嘆かせたあのラッセ君が「英文科」の学生とは、私も全く驚いています。6年の歳月の間で、私などは以前と余り変わらない生活を送っている間に教え子は確実に成長して行くのが目の前に実例として示されています。

さて、エストニアの近況ですが、今年の5月から念願の「EU加盟」を果たせることになり「社会変革」の真最中です。ここ3年間に社会的なインフラストラクチャーのみならず、「人々の意識改革」、特に青年層の「意識改革」は目覚しいものがあります。私は年々高校に新入学して来る若者の変化からも明確にそれを感じています。以下にその状況をご報告いたします。
●言語の変化
●雇用条件の変化
●進学競争の激化
●大学への進学競争の激化
●エストニアで最近5年間で目立った現象
●エストニア音楽祭の形骸化
言語の変化
何よりも驚くのは若い人々の「ロシア語離れ」です。「旧ソ連邦内の一自治共和国」だったエストニアはロシア語が不便なく通じる「ロシア語圏」だと思って居られる日本の方々が多いと思いますが、高校に入って来る生徒の多くが「ロシア語は全く判らない」と云う生徒がほとんどになりました。だから高校でのロシア語授業(約半数の生徒が選択外国語科目として取る)のレベルが年々下がり、日本の大学での第二外国語(多くはドイツ語はフランス語だと思いますが、大半の学生は大学卒業と共にすっかりと忘れてしまう)に近いレベルになってしまい全く実用に役立たず、当国で約1/3を占めるロシア語系住民とのコミニュケーションが取れなくなって来ています。但し、ロシア語系住民が段々とエストニア語を理解し始め、特にロシア語系住民の若い世代がロシア語とエストニア語の双方を理解出来る人が増えて来たので、長い将来にはこの難問が少しづつ解消の方向にあるとは言えます。世界的には悪評が高いこの国の「言語法」(エストニアの公用語はエストニア語が唯一の言語であり、それ以外の言語は公的な表記は一切出来ないと云う法律)はEU加盟の条件として廃止がEU側から義務付けられると思われます。実際に私達に身近な実例として「滞在ヴィザ申請」の使用言語が前回までに「エストニア語での書類」から、昨年5月から「エストニア語以外に、英語、又はロシア語での書類作成」が認められました
雇用条件の変化
英語が話せて、コンピュータ技術のある人」が重用され、高給(当国レベル)が取れるようになりました。年功よりも実力、それも上記「英語とコンピュータ技術の力」が物を云う時代になりました。邦人の企業進出を考えておられる方から良く受ける質問ですが、「エストニアの平均給与は?」と云うのに対し私は「エストニアでは平均給与」と云う考えは全く通用しません。最低給与水準は昔と余り変わっていません(月収2−3万円相当程度)が、これは「英語も、エストニア語も、コンピュータ知識その他の知的な仕事内容を一切必要としない職種と人材に限られています(こうした人々はロシア語系住民に多い)。又、偶然に安い給与で有能な人を得ても、すぐに他企業に引き抜かれてしまいます。給与に見合った人材しか雇えませんから、能力のある人を雇おうとしたら相応の給与(例えば外資系企業や各国大使館の現地人職員並)を出さないと良い人材は雇えませんよと御答えしています。一例として、私が当国に来た7年前には銀行窓口ですら英語は全く通じなくて、私が銀行に行くと奥から英語の判る職員が出て来て応対をしましたが、今は少なくともタリンの銀行ではどの窓口に行っても、そこの職員は全員英語で応対が出来ます。この現象は昔窓口に座っていた職員が英語を勉強した結果ではなく、窓口の人々の多くが若い世代なので、「英語の出来る人に替えられた」と解釈すべきだと思っています。だから、一部の観光レストランを除いて、多くの大衆食堂やカフェでは相変わらず英語があまり通用じませんが、多くは若いロシア系の住民です。つまり、語学能力がないと給与の低いウエイトレス位しか職がないと云うことでしょう。
●進学競争の激化
前記の如く若い世代は能力格差による熾烈な競争社会になりました。そして、旧ソ連時代のように義務教育を終了さえすれば、国家が就労を保証するシステムではなくなり、一方、当国の義務教育はソ連時代のように高校までの12年間ではなくなり、9年生(日本で云えば中学3年生まで)となり、高校入学は学区制無しの自由競争になりました。高校は義務教育ではなくなりましたが、高校への進学率は実際には100%に近く、実質的に「義務教育と同じ」結果になっています。しかし、日本のように高校(特に私の奉職する高校では著しく見られる現象)では、別の問題を生じています。それは「登校拒否生徒」の大幅な増加です。8年前に当高校奉職時にはほとんど見られなかった「登校拒否生徒」が大幅に増加しています。例えば、現在の高校3年生(12年生)などは、2年半前に60名の入学者があったのが2年半後の現在では在校生が僅か17名、ほとんどの退校者は欠席多数による成績不振が原因で、現在の在校者17名から更に2〜3名が脱落(不登校・成績不振)すると思われます。そして不登校者のほとんどが精神的な理由による不登校、すなわち「登校拒否」と見られますが、当高校の現地人教師の方々はかって経験したことがない現象で、不当校者は単なる「怠け者」としか考えていません。もっとメンタルな理由だと思って教頭を通じてクラス担任の先生に調べて貰うと親が驚いて学校に来ます。日中、両親が共稼ぎ又は片親(当然ながら日中は働いているので家には居ない)なので、親が勤務に出た後、子供が家に残って不登校なのを誰も注意しないことが大きな原因であると思います。残念ですが、不登校問題では先進国の日本人の方が事態の発見が早いのは余り自慢にならないと思います。
●大学への進学競争激化
この国では国立大学は数校です。タルト大学、タリン教育大学、タリン工科大学、音楽大学、美術大学、農業大学(タルト大学から分離)、などです。後は私立大学が三つ、それ以外に私立の専門学校(高校卒業が入学資格なので「高専」と言った方が適当かも知れません)が多数あります。しかし、上記の国立大学へ入るのが現在では最も将来の道が開かれるので国立大学への進学競争が激化しています。しかしこの国では「偏差値」を図る業者は未だ生じていない(私立の補習校が若干あるようです)ので、現在は口コミに依る所謂「進学高校」の名前が定着化して、これらの高校の入学試験が年々激烈になって来ています。目先の利いた親は子弟をこれら有名進学校の小学校部、中学校部に入学させて内部進学を企てます。だからこれらの有名校への外部中学からの高校入試は益々激化しています。残念ながら私の高校は有名進学校ではなく、中学までの優秀者の外部流失と高校への入学者は明らかに有名校入試の落ち武者や有名校からの高校進学段階での脱落者とおぼしい生徒が多くなりましたが、こうした生徒は不登校や早退などが多くて当高校からも脱落する傾向があるようです。ことしの高校一年生は「頭脳は優秀だが身体が弱くて欠席が多い」生徒が多いのが目だった現象です。これはやはり一流校の授業に付いて行けない人材が当高校に多く流れてきた結果だと私は推測して居ります。このように若い人々の間で「先進国病」が侵入して来たことを肌で感じています
●エストニアで最近5年間で目立った現象
商業の活発化
特に大規模なスーパーマーケットの開店が相次いでいる。
スーパーマーケット間間の競争激化。一方では個人商店、小規模マーケット、小型スーパーの閉店が目立つ。
商品選択肢が広がる
但し、品物の種類は売れ筋のみに集中しているので、選択の巾が少ない。
高級品はあまり在庫がない。
交通関係の変化
自動車台数の大幅増加。道路の混雑。道路の拡張・新道の開通と信号の大幅増加。鉄道・バス路線の採算性重視による整理が進んでいる。
(不採算路線の運休) 
建築関連の変化
ビル・ラッシュ(タリンの中心地域では高層ビルの新築が目立っている)タリン郊外には一戸建て個人住宅の新築が大幅に増加して不動産ブームで地価が急上昇している。
法の整備の進行
改定の全てがEU基準に一致、またはEU法制への対応化を目指している。
為替
為替の自由化が進行している。
労働対価の変化
労働対価は能力次第、又、能力化に対応出来ない起業は人材不足で営業不振で倒産・吸収合併が進んでいる。
サービス業
新規レストランの開業が多いが、極めて早いサイクルでの閉開店が目立っている。料理は高くなった割には、味には無頓着(同じ味を長期間保持出来ない)

言語関連

英語が通用するようになった。その他のヨーロッパ語はどんぐりの背比べ状態。
エストニア音楽祭の形骸化
今年の夏には1999年以来5年振りの「エストニア合唱祭」が開催されます。しかし私にはどうも世界的に有名になったこの「合唱祭」が毎回段々と形骸化されて来たことを感じます。特に開催地のタリン市民はクールで「自分は関係ない」と云う顔をしていることを感じます。騒いでいるのは、日本人などの外人観光客とそれを当て込む旅行業者だけのお祭り化して来ていると思います。但し、合唱祭に参加する主としてエストニアの地方の人々(多くは貸し切りバスで地方から首都タリンに合唱祭出演の為に集まる地方の合唱ボランテイア・グループがほとんど)です。多分、1991年ソ連からのエストニア独立回復当時、自由獲得と国民的な団結の力を誇示し、確認した当時の熱気から覚めた「種の落ち着き」が今湧いて覚めて来たのだと私は思っています。私には毎年6月第一週に行なわれる「タリン祭(オールド・タウン・デイ)の方が、未だ観光客が余り多くない時に行なわれるので、毎年の催しですが、「市民参加の日」であることを肌で感じています。
以上、太平洋戦争後の日本人の混乱期を少年期で過ごした私には、戦後の経緯を又この国で繰り返しているような気がして、良い意味でも悪い意味でも深い感慨を覚えます。
                            高橋清彦 2004年1月吉日