この音楽祭については、やはりエストニアの歴史を知らなければ、その音楽祭の持つ大きな意味を知らなければいけない。それを知ることが出来ればさらに深い感動をこの音楽祭は我々に与えてくれるものと思う。
独立への流れ1
ウラル山脈の西と南には約7千年ほど昔にウラル民族あるいはフィンウゴル民族という人達が住んでいた。この人達が色々な民族との抗争の結果離散してしまい、数千年かかって色々なところに散っていった、現在23民族あると言われているが、独立国では、ハンガリー、エストニア、フィンランド、そしてロシアの中にもフィンウゴル系の民族の国が5つあると言われている。バルト海に面しているということで、中世のハンザ同盟の時代に発達したところで、その頃より、ドイツ、スウェーデン、ポーランド、デンマークの支配を受け、その後18世紀のピョートル大帝の時に帝政ロシアの支配下に入り、そういう大国の支配を受けてきて、自前の国がなかなか持てないという少数民族の悲哀を味わってきた民族である。
独立への流れ2
また、エストニアとロシアとは文化圏が異なり、ローマカトリックが入ってきて、宗教改革後はドイツの影響だと思われるが、新ルーテル派であり、西欧文化圏であったため、ロシア支配下でも独特な地域で、資本主義が最も発達した地域であった。今世紀のはじめまで,この地域の直接の支配層を形成していたのは,バルト・ドイツ人と呼ばれるドイツ人入植者およびその子孫であった。エストニア人の民族意識が高まったのは,「民族的覚醒の時代」と呼ばれる1860〜1880年代である。
独立への流れ3
クロイツヴァルト(F. R. Kreutzwald, 1803-82)が,エストニア語の叙事詩『カレヴィポエク』(Kalevipoeg, 1857-61)を完成させたこと,新聞発行を通じた文筆活動で活躍したヤンセン (J. V. Jannsen, 1819-90)が中心となって最初の民族歌謡(1869)が開催されたこと,エストニア語による中等教育を目指したアレクサンドル学校運動が興ったこと,フルト(J. Hurt,1839-1906)が中心となって,フォークロア収集が広範囲に展開されたことなど,その後のエストニア民族文化の発展の基礎となった多数の出来事によって特徴づけられる時代である。
独立への流れ4
第一次世界大戦の時の1917年にロシアの二月革命が起こり、レーニンは革命後すぐに諸国民の権利宣言をを発表し、諸民族の蜂起と革命への参加を呼びかけ、これを機にエトニア人の居住地域であるエストラント県(今日の北エストニア)とリーフラント県北部(今日の南エストニア)がエストニアとして統合され,エストニア人は自治権を認められ、ソビエト・ロシアとドイツの攻防の間隙をぬって,エストニアは民族主義者が独立を宣言した。(1918年2月24日エストニア独立宣言)これに対し共産党員も社会主義政権を打ち立て内戦に発展し結局内戦はイギリスの介入によって民族主義側の勝利で終わった。エストニア共和国の首都タリン、この町の中央にある城の塔に民族の旗をかかげエストニアの人々は初めての独立を祝った。
独立への流れ5
第一次世界大戦の時の1917年にロシアの二月革命が起こり、レーニンは革命後すぐに諸国民の権利宣言をを発表し、諸民族の蜂起と革命への参加を呼びかけ、これを機にエトニア人の居住地域であるエストラント県(今日の北エストニア)とリーフラント県北部(今日の南エストニア)がエストニアとして統合され,エストニア人は自治権を認められ、ソビエト・ロシアとドイツの攻防の間隙をぬって,エストニアは民族主義者が独立を宣言した。(1918年2月24日エストニア独立宣言)これに対し共産党員も社会主義政権を打ち立て内戦に発展し結局内戦はイギリスの介入によって民族主義側の勝利で終わった。エストニア共和国の首都タリン、この町の中央にある城の塔に民族の旗をかかげエストニアの人々は初めての独立を祝った。
独立への流れ6
新生エストニアの民族政権は国内では内戦で争った共産党員を厳しく弾圧し、一方、外交では中立を保ち小国としての生き残りをはかろうとしたが、しかし直ぐにドイツ軍によって占領された。そして第1次大戦終結によるドイツ軍撤退の後,ソビエト・ロシアが再びエストニアに侵入, 1920年2月2日にレーニン政権がエストニアの独立を認めるという「タルトゥ講和」が調印されるまで,エストニアの実質的な独立は達成されなかった。、しかし、エストニア人はここではじめて小国ではありながら独立の時代を迎えることになる。独立国となったエストニアは,人口のほぼ9割がエストニア人で,少数民族として存在したドイツ人,スウェーデン人,ロシア人,ユダヤ人などの占める割合は,他の東欧諸国と比べて小さかった。また,これらの少数民族は, 1925年の少数民族文化自治法によって,その文化的自治が保障されるなど,国内の民族関係は安定していた。
独立への流れ7
しかし、1937年ナチスドイツが政権を握ると、エストニアの独立は急速に脅かされ始めた。そして、1939年8月突如調印された独ソ不可侵条約、この時、ドイツ外相リッペントロックとソビエト外相モロトフとの間でヨーロッパの領土問題について秘密裡に協定がかわされ、その結果翌1940年エストニアをはじめバルト三国はソビエト連邦の勢力下におかれることになった。ソビエト軍が進駐(1940年6月ソビエト軍タリン占領)したエストニアでは、その威圧下に社会主義政権がつくられ、独立時代の政府関係者を中心に粛正が行われ、エストニア人のシベリアへの大量強制連行が行なわれた。エストニアの独立は僅か20年で終わりをつげた。
独立への流れ8
第2次大戦中,エストニアは一時ドイツ軍に占領されるが,ドイツ敗退後,再びソ連軍が侵入,ソビエト体制が再建された。1949年3月には,農業の集団化政策を促進するために,2度目の大量強制連行が行なわれた。戦後,モスクワの中央政府による大規模な工業化政策の結果,大量の労働者がロシアから流入したことによって,エストニアの民族構成は破壊的な影響を被った。同時に,ロシア語を優遇する一方的な2言語併用政策が導入され,初等教育におけるロシア語学習が義務づけられるとともに,特定分野でのエストニア語の使用が制限された。
独立への流れ9

進行するロシア化は,エストニア人に民族存亡の危機感を抱かせるようになり,1970年代の末ころから反体制運動が表面化した(1980年の「40人の手紙」事件)。いわゆるペレストロイカの進展とともに,言論統制が緩和された 1987年ころから,エストニアのロシア化に反対する運動は,「東北エストニアの環境破壊」に反対する住民運動の形をとって公然と行なわれるようになった。やがて,「経済的に自立したエストニア」提案(1987年9月),エストニアの文化遺産の保護を目的とする「エストニア歴史遺産保存協会」の結成(1987年12月)などを経て,「歌う革命」(1988年6月),人民戦線の結成(1988年10月),共和国主権宣言(1988年11月),言語法制定(1989年1月),独立への移行開始宣言(1990年3月;俗に「独立宣言」)と,次第に政治的独立へ向かって事態は発展して行った。
解説1
エストニアというのは、ゴルバチョフが始めたペレストロイカの中で常に最前線にあった。というのは、元々経済が発展しているところだった、色々な経済実験を行って、最初の民営化計画実験と言っていいようなコーペラツィブという民営企業をつくる、そういうのもエストニアが次々に先進例を出していくというようなことがあった。人民戦線というのは、上から始められた改革を我々は下から推進する形で起こしていく。これはペレストロイカを進めていく大きな牽引力になった。ところがそのペレストロイカを進めていくと、グラースノスチで時代の空白があってはいけない、昔の歴史の書き直しを否定していく、そうすると彼らにとって一番重要なことは、実は自分達の独立が侵されたのはドイツとの不可侵条約だ、ということで、それを公開しろという運動になっていった。
解説2
こうしてペレストロイカの運動として始まっていった人民戦線が独立運動になっていった。そうして、翌年の選挙では人民戦線が勝利して独立宣言をするということになる。そのときの議長がアーノルド・リュイテルという当時の最高会議議長で、以前から最高会議の議長をやっていた人物であるが、元々は学者で非常に温厚で国民の支持が強い、当時では国家元首と考えていいと思われる。そして、その時の独立派の人民戦線がつくった内閣の外務大臣になったのが現在のエストニア共和国大統領レナート・メリ氏である。彼は外国語が達者だし、非常に文化的な人なので外国を回って自分達が永年思ってきた自分達の独立への思いというものを伝えていくにはまさにうってつけの人物であった。

エストニアは,1991年8月,モスクワで起こったソ連保守派のクーデターを機にソ連邦離脱による独立回復を宣言,同年9月,ソ連邦も独立を承認した。 1991年9月国連加盟の外相だったメリは最高会議の議長アーノルド・リュイテルと一緒にアメリカに向かった。半世紀ぶりの独立国としての国際社会への復帰。


★レナート・メリの言葉★
意識していようとなかろうと、歴史はその現場に居合わせた人によってつくられていく。国連の前に旗が上がっていくあの10秒間は私達にとってまさに夢に見た瞬間でした。旗を上げる少年に対し私は何度も嫉妬を覚えました。シベリアにいた時代から私はあの旗を上げる手の動きを夢にまで見たのです。これはまさに祝福すべき瞬間でした。




「歌う革命」(Laulev revolutsioon)

ソビエト時代末期,いわゆるペレストロイカの時期に,エストニアの民族的的独立を求める集会が,民族的,愛国的な歌を合唱する野外コンサートの形で開かれたことに由来することばで,名付け親は漫画家のヘインツ・ヴァルク (HeinzValk)と言われる。エストニア人が野外で民族的・愛国的な歌を合唱する現象は1988年6月のタリン市の夏祭の時に始まったものと見てよいが,同年9月11日にタリン郊外の「歌の広場」で開催された野外合唱コンサート「エストニアの歌」(Eestimaa laul)によって,外国にも知られるようになった。30万人が集ったといわれるこの集会では,エトガル・サヴィサール (EdgarSavisaar)をはじめとする人民戦線 (Rahvarinde)の活動家の政治的,愛国的な演説のあと,全国から集まった人々によるエストニア語の歌の合唱が夜中まで続いた。類似の現象は,同時期のラトビアやリトアニアでも見られた。
中世の時代から大国に支配されてきた少数民族であるエストニア人がこんなんじゃいかんということで立ち上がった原因に。ロシアのエストニア言語における言論統制が高まってきた頃に始まる。エストニアはその国語を憲法で定めている数少ない国の一つで、すでに1934年には言語法というものがあり、現行の言語法は1995年の制定である。岡田洋一氏が話していたが、昔ロシアに支配されている時はエストニアの歌をエストニア語で歌うとロシア側から圧力がかかったとのことで、声がだせないのならば踊りで表現し、声が出せるようになったらみんなが集まって誰にも妨げられない状況で自国の言葉で歌うという。このような気持ちがこのダンスパフォーマンスや音楽祭にあるように思えてならない。ここでソ連に併合されたエストニアからスェーデンにに移住した言語学者サーレステ(1892-1964)の次の言葉を紹介しよう。
サーレステの言葉
エストニア語―この古い,尊敬すべき,愛すべき「くにことば」,この私たちの心に,そして耳に(時には外国人の耳にさえ)美しく響く言語は,わが民族にとって,もっとも古く,かつもっとも永続性のある財産である。さらに,エストニア語は,私たちの多くにとって,すなわちエストニアに残った人々にとっては,依然として自分のものとみなすことができる唯一の財産であり,故郷を離れて外国で暮らしているエストニア人にとっては,過去から持ち出すことのできた唯一の財産である。この古来からの遺産は精神的なものであり,したがって頑強である。これまでいかなる力も,それを曲げたり,歪めたり,ましてや私たちから奪い取るとか,根絶させたりすることはできなかったものである。いかなる権力もそれを同化するだけの力を持たなかったし,また,誰にも国有化することはできない。長い時間をかけて次第に影響を与える ことが試みられているだけである。私たちの言語を脅かす危険としてもっとも恐れなければならないのは,むしろ私たち自身である。すなわち,エストニア語を使ったり,勉強したりすることを怠るようになることだ。この精神文化的財産は,わが民族が存在し続けるための最も大切な条件であり,私たち皆を,時間的,空間的に結び付けるものである。実際,エストニア語は,私たちを何千年も前の遠い過去の祖先たちに結びつけているし,また,私たちの後からくる世代へと引き継がれて行く。エストニア語は,世界中のエストニア人やエストニア共和国の市民を相互に結びつける絆である。ヒーウマーの人をセット人と,ソルの人をアルタクセの人と,ムルキ人をハリユマーの人と,さらにはエストニアのスウェーデン人,ドイツ人,ユダヤ人,あるいはロシア人を私たちと結びつける絆なのだ。この精神的な絆が,祖国を離れて外国にいる私たちを集め,結びつけ,近づけるのだ。生きる目的や考え方,各時代の束の間の過ちが,このまとまりを分けることがあるとしても,母語はそのまとまりを失わない。信仰や教義のせいで離れて行った者たちを,もう一度まとめて,1つの家族とするの「くにことば」なのである。 この共通の言語に支えられて,私たちの共通の生活,精神,思想がある。 エストニア語は,初め,自由に狩猟,漁業,牧畜,農耕,航海を営む人々,すなわち未開の状態におかれ, 農奴化された農村住民や都市貧民の原始的な言語であったが,最終的には,高度な文化をもった民族とその国家の表現手段となった。マシンクやヤンセン,あるいは,クロイツバルトやヴィルデは,まだ母語でない言語でものを考えていたから,手探りをしたり,よちよち歩きをしながら,エストニア語で話したり,作品を書いたりしていた。しかし,タンムサーレやトゥクラス,スイッツやオクス,アルヴェルやリスティキヴィ,カンクロやウイポプーは,どんな要請にも答えられるエストニア語の使い手になっていた。「くにことば」の上手な使い手なら,シェイクスピアやダンテ,ゲーテやフローベール,ボードレールやバレリーの作品の忠実な翻 訳だってできるのだ。この言語は,高貴と言われようが,下賎と言われようが,粗悪と言われようが,良質と言われようが,脆弱と言われようが,壮健と言われようが,ずっと私たちとともに歩んできたものであり,私たちにふさわしいものとしてあるのである。
[ 原文 ]