Estonia感動の旅

感動と友情を深めて28名の旅日記 1997.11.15〜11.23





1997.11.15〜16

15日 釧路→成田 成田全日空ホテル泊
16日 11:55 成田発FinairAY074便
    
15:20 ヘルシンキ着
日本から9時間、やっと飛行機から降りられる。ここは北欧フィンランドサンタの国フィンランド.。エストニアのタリンはここからまたまた飛行機、しかし30分のフライトだ。
    16:30 ヘルシンキ発

すでに真っ暗、薄暗い飛行機の中、エストニアの人達なのかどうかは解らないが、どことなく寡黙な人達に混じってタリンへ向かう。皆からはだんだんと声が出なくなってくる。疲れてきたのか、これから向かうエストニアの国への思いにふけっているのか。窓の外では漆黒の中にチラホラと灯りが見えてきた。そしてその数をどんどん増やしてきている、そう、この灯りがタリンの灯だ。その灯の中に双発のKAR AIRの機体はどんどんその高度を下げていき、そしてランディング、一行は、お互いの顔を見ながら他の人達に迷惑がかからない程度の歓声をあげながら、エストニアの台地に着いたことの確認し合っていた。そして飛行機のタラップから下りて、ついにエストニアの地に立った。ここが歌の国、民族音楽の国、無血独立の国エストニア。これからどんなことが起こるのだろうか。
17:05 タリン着(タリン空港でエレルヘイン 他の感動の出迎え)
   

訪問団一行が、タリン空港税関での入国手続きを済ませて、ロビー内に入り始めた時、にわかに美しい歌声が空港内に響きわたる。

なんと、ロイットメ率いる、
エレルヘイン少女合唱団の歌声だ

空港内には他に、ヴェンノ・ラウルや釧路で逢ったばかりのエスティプロジィエクトのメンバー、湿原会議で釧路で逢ったイロメッツや色々な旧知のエストニアの人々が出迎えに来ていた。

もう空港内は我々一行の出迎えで大騒ぎ、エレルヘインの少女達は歓迎の歌を歌いながら、手に持った一輪の花を我々一行の一人一人に手渡していく。長時間の空の旅で疲れ果てていた我々だったのだが、この演出には身体が熱くなるほどの感激を受け、一行の殆どが目頭を熱くしていた。

そして最後にシーリエを真ん中にエレルヘインが取り囲み、日本に帰化したエストニア人のシーリエの祖国への出迎えの歌を優しく歌い上げる。

ジーンときましたね。感動したまま、バスで一路パークホテルへ向かう。ここで、今回でエストニアが2回目の訪問になる河原田良子さんの旅を終えてからの思い出に登場してもらおう。

  「赤と黒」河原田良子                      
「赤と黒の空港は変わっているだろうか、満席のFinAirに身をおき、5年前とは行きからして違うと感じた。2度目のエストニアの旅である。

エストニアとはどのような国なのか、何の知識もなく探検に行くような気持ちで飛び込んで行った1992年のエストニア。独立間もない国は、朝早くから夜遅くまで働く人々が目立ち、木訥とした印象を私に残した。エストニアの人々とはまだ距離があり、一緒に行った20名の和は強くなり、今日のエストニア友好協会の発展の基礎になった旅でもあった。

1997年11月、年間で知り得た知識、人々、そして何より「地球の歩き方」に負けない、地図付き手作り「エストニア旅行のしおり」」を胸に一路タリンへ。
      
タリン空港は、赤と黒の内装そのままに私達を迎えてくれた。ああ、変わっていない・・・・そう思った。
だがロビーに入ると一変した。エレルヘインの人々の出迎えの合唱、ロイットメさんがいる、ヴェンノラウルさんがいる、エスティ・プロジェクトの人々が、・・・・ロビーを埋め尽くした人々とテレ!テレ!と挨拶を交わし合える歓び。

温かい気持ちはエストニアでの7日間を通して変わることは無かった。飛び込んでくるエストニア・再会の歓びを分かち合える大勢の人がいるエストニア、5年の歳月は大きく動いていたのだと肌で感じた7日間であった。そして広がる和・エストニアと日本を感じた旅でもあった。いつまでも余韻の残るエストニアの旅であった。

21:00エヴェリンの家へガスパルちゃん1才誕生パーティに参加        
タリンパークホテルで夕食(エストニアで最初の食事である、その食材に興味があったが、申し訳ないがあまりおいしくなかった。冷めていた。)
後、一行は我らがシーリエのお姉さんの娘さんのエヴェリンの家へバスで向かう、7階建てくらいのアパートの5階だったかな?シーリエのお姉さん、アンネ・キカス、リーホ・キカス夫妻とエヴェリン夫婦と丁度その日が1才の誕生日を迎えたガスパルちゃんの一家総出で28名の我々を自家製ビール、クッキー、チョコレート等々で暖かく迎えてくれた。

そのエヴェリンの家で本人達には内緒で企画をしていた
永井隆、良子夫妻の結婚式を即席岡田洋一神父による、デ・タラーメ教式結婚式がエヴェリン夫婦の立会のもと厳かに開催され、鹿内直氏率いる合唱連盟の仲間、石田憲一、中井真知子、上田章代さんらによる祝婚歌の合唱が披露され、出席者全身から多くの祝福を浴びていました。(式はあげず、日本で入籍は済ませていた)素晴らしく思い出に残る結婚式だった。

夜遅くまで賑やかに楽しい時間を過ごさせていただきました。訪問団一行はこの暖かいもてなしに感謝しつつ、ホテルに向かいバスに乗った。空港といい、エヴェリンの家でのもてなしといい、着いたばかりの短い時間に濃縮した感動、この先はどうなるのだろう。
  



 突然の出来事に驚き、恥ずか
  しがり、泣き出す二人


  

1997.11.17

17日 朝8時頃の食事なのだが、夜半に雨が降っていたのがあがっているのだが、何せ暗い、まったく夜のように暗い、8時半、9時になってもまだ薄暗い、出勤時間なのかホテルの前を多くの人達が通っていくが、一様に色が重たい黒っぽい厚手のフード付の外套に身を寒そうに包んで足早に過ぎていく、9時くらいになりようやく明るくなってくる。さあ、今日からエストニア国内の旅の始まりである。


10:00
日本語過程のあるヤルベオッツァ地区学校表敬
ホテルからタリン郊外の学校へ向かう。その道中、以前にタリンで学生をしていて居住していた経験のある岡田洋一氏が、ガイド役をひきうけ、巧みに周りの景色の説明をしていく。

そして学校へ、日本語学校の教室に入ったら、壁には、習字の作品がかかげられている。その教室は、日本から来られている先生が日本語を教えている。

数人の生徒が、まるで我々が父兄で生徒が子供の参観日のような雰囲気で授業が進められていく。しかし、なんと日本語の上手いことか。生徒一人一人が自己紹介と自分の将来について日本語で話してくれた。同じ年代の日本人の子供と比べるとまったく考え方がしっかりしている。

その後、そこの体育館に集まり、我々の前で歌や踊りを披露してくれた。小学校低学年の小さな可愛い子供たちが人形のようだった。学校へ来た時に、廊下で生徒とすれ違う時には、「テレ!」そして帰りの廊下では「サヨウナラ」の言葉、なんとも優しい子供たちよ。ここは上原さんに登場願いましょう。
「二つの感動」上原 博

バルト海の深い淵の中から、白色灯の灯りに浮かぶタリンの街が眼下に広がる。きっと一人旅なら不安だったに違いないが、28人メンバーの一員ということで、気持ちは期待だけで一杯である。そしてその期待は最後まで裏切られることはなかった。

タリンやタルトゥの古い街並み、松と白樺の林と牧草地のコントラスト、クレッサーレ城、漆黒の闇に輝く満天の星、立ち寄った農家でのエストニアの味、古いお城や旧市庁舎で聞いたコーラス、冬に向かうという季節を割り引いても実に豊かな日々であった。そしてこの旅の取って置きの豊饒は、人々の思いやりや優しさ、信頼することの美しさであったと思う。結婚という形で祖国エストニアを離れ、祖国の様々な出来事に釧路から心を痛めるシーリエさんと、「おかえりさない」と優しく迎えるエレルヘインのメンバーやヴェンノラウルさん達の心が見事に解け合う時間を共有できたこと。一輪の花が、揺れるキャンドルの灯りが、心を込めて歌われる祖国の歌が重なり合って感動の波が次から次からと訪れる。本当の人々の豊かさを見たような気がする。

もう一つ、ヤルベオッツァ地区学校を訪れた時。祖国独立から5年のこの国で、日本に興味を持って日本語を勉強している学生たちがいて、その目が輝いていた事。貿易会社を退職された、高橋先生や山本先生が薄給にもかかわらず、ライフワークとして生徒達と交わっている優しさに何事にも代え難い人間の生き方を教わった。私が釧路を離れる数日前、FM釧路の街頭インタビューに掴まった。「将来の夢や目標は何か?」の問いに「退職したら外国で日本語教師をしてみたい」と答え、インタビュアーに感激されてしまった。きっと、旅の思い出が、そのような言葉を出させたのだろう。
おひぃ〜さま〜が そ〜らの ・・・・・・は〜なさきみ〜だれ〜・・・・・・ち〜いさ〜ない〜えよ〜 シーリエさんの故郷、そしてエストニアの夏が自分の頭の中で、完璧に組み立てられてしまった。そしてシーリエさんの愛唱歌も、自分の心の歌になった。



表敬終了後ヴェンノ・ラウル氏が合流し、
午後1時オールドタウンの門のトーンペア城の中庭にあるレストランでの昼食、何を食べたか忘れたが、朝のホテルの食事よりは随分と美味しい。
食事が終わり、一行は、さほど人通りの少ないオールドタウンの町にくりでる。背の高いヴェンノ氏が我々に気遣うように心配りをしてくれる。

先ずは、オールドタウンが一望に見渡す展望台で旧市街全体を確認し、ピック通りを歩き、途中ちらっと右手の建物のかげからラエコヤを見ながらピック通りからビュハヴァイム通りの入り口にある、聖霊教会を見学する。その後、ラエコヤ広場に引き返し、ラエコヤをあちこちの方向から写真におさめた。やはり木造文化圏からは石造文化は珍しい。通りを走る車のタイヤの音がやかましい。そして、カタリーナ通りを堪能しながらトーンペアの東の城壁に辿りつく。途中、色々な可愛らしいお土産売りの店が多くあったのだが、帰国する前に旧市街での自由時間があるので目星だけつけておく。

緯度が高いので日がのぼるも遅いが日が暮れるのもまったく早い。ヴェンノ氏が野外音楽堂に我々を連れていってくれた頃には、日も沈んで薄暗い。しかし、30万人が集まり大合唱するというあの音楽堂が目の前にある。その階段状のステップに合唱連盟の人達は、4人そろって並び、日が暮れて薄暗い空を向かって歌い上げる。4人だけの歌声だったが、これがこのドームを埋める人々の大合唱を思うと、想像を絶する音になるのだろう。4人の歌い手は感動していた。ヴェンノ氏とは、ここでお別れ、次はエレルヘインとの集いだ。


野外音楽堂


トーンペアのレストランでの食事


  展望台からの眺め

Raekoda(旧市庁舎)


   エレルヘインとの感動の歓迎会

真っ暗なタリンの街をバスに乗ってあっちへ曲がり、こっちへ曲がりと随分長く乗っているうちに、とある広場で降りた。そこには暗い街灯に灰色に照らし出された石の塊、眼をこらしてみると、小さな城のいようだ。

扉を開いて我々に、こっちというように手招きしている人に促されるまま、その城の内部に入る。

狭く急な石の階段をクネクネと登っていくと、突然蝋燭のあかりに照らし出された空間に出た、そこには、あでやかなエレルヘイン少女合唱団の面々がニコニコと我々を迎え、間もなく、窓がなく石の穴蔵のような空間に、透き通った空のような歌声が静かに響きわたりはじめる。

まったく、なんという演出だろうか。ここで合唱連盟の石田憲一氏のその感想を披露してもらおう。


この古城での出来事だった


エレルヘインの少女達



 「エストニアの歌声」石田憲一                                      
「会場は、石造りの古い城であり、音響も大変良い場所であった。残響の長さも程々で、石造りやコンクリート造りにありがちな「カーン!」という嫌な硬い音が一つもでない、柔らかく自然な響きのする会場であった。エストニアの旅行中、気が付いたひとつに「クレッサーレ城」の広間、あるいは、タルトゥ大学」の2階ホールでも、また、最終日の「エレルヘイン」や「エストニア少年合唱団」が演奏した「ラエコヤ」の会場も。音が自然で響きの良いところが多かった。やはり、歌を心から愛する国民性がこのような建物を造らせたのかなと思わせる。」

「この古い城でのコンサートについてであるが、私達にとって、この旅での一番印象に残る思い出になったに違いない、メンバーは、来日時から入れ替わっていたが、釧路公演で受けた感動より以上のものを受けた。濁りのない澄んだハーモニー。相変わらず美しい声照明を落とし、ロウソクの小さくても暖かさを感ずる灯が点在する中で演奏する。聴いている者の感覚は、自然に聴くことに集中させるようにもっていく演出の見事さ。ロイットメ女史のちょっとした動作に機敏に反応し、声の強弱、テンポや表情を変化させていく団員達。感激せずにはいられなかった。

「こんな贅沢な時間を過ごさせてもらったことに感謝したい気持ちで一杯になった。」と、見事にあの時のことを表現している。その最中にお菓子や、ワインや、チーズなどを両手に溢れるくらいに歌いながらの少女達から手渡しされ、つまんでいるうちにおなかがいっぱいであったが、古城での感動の余韻をひきづりながら、ラエコヤ広場のレストランでの夕食に向かった


1997.11.18
18日 今日はタリンを離れ、サーレマという島へ向かう210kmの旅である。
昨日の朝食より格段に美味しくなった朝食を取った後(後で聴いたところによると、昨日の朝食については、ホテル側で予定をしていなかったという手違いがあったようだ。)

朝9時半頃、サッとどこからとなく現れた、ヴェンノ・ラウル氏が我々のスーツケースをどんどんバスに運び込んでくれる、そして、バスでサーレマへ向かう、まだ朝焼けのタリンの町中を走ったのだが、行き交う車の形がやはりソビエト時代の雰囲気の、日本から見ると一世代前のようなくすんだ雰囲気の車が行き交う、タリンの町をすぎた頃から起伏のない荒野の中のかなたに伸びる一本道をひたすら走る

畑のようなところや、牧草地のようなところに必ずと言っていいほどに白っぽい石がゴロゴロしている、岡田ガイドが話には、エストニアの野はどんどん石が浮き上がってくる、それも後から後から出てくるとのこと。どうしてだろうか。とにかく石が多い。



タリンからサーレマへの道






道路標識


フェリーターミナル


フェリー上でVENNOを囲んで

2階立てのバスの1階では、ヴェンノ氏と岡田夫妻、中村会長が落ちつき、他は、2階の座席で、前の方では、若干数名がエストニアの銘酒「バナタリン」をバスに揺れながら、自らも揺れながら酒盛りをしている。

下の階の岡田ガイドのマイクからの声がどこかでしているが、甘く、蜂蜜のようなバナタリンで酔いが回った人には、その声は聞こえてこない。そのうち、突然、岡田ガイドの怒り狂った声、「おまえら聴いているのか、全部見えているんだ!」という叫びに近い声を聴きながら、また、隣人とま、ま、ま、一杯と酌み交わす酒。

周りは煙ったような暗い森が続く、そうして騒いでいるうちに、広く、随分と破壊された建物の多い場所にくる。そこにフェリー乗り場があった。前にはバルト海が広がる。フェリーターミナルには人が少なく、そこで船に乗るまでの時間またビールを飲む、勿論、大半はコーヒーを飲んでいたが。

一人、外に出て海を見る、ここも野と同じように随分と石が多い。石が地球の内部から吹き出してくるかのような雰囲気である。そしてフェリー乗船。この船の中がまた面白い、売店があり、ビールでもチョコレートでもなんでもある。

バルト海の内海のせいか揺れもほとんどない。わいわいやっている時、誰かが、今日本と連絡をとったらビックニュースが入ってきたとのこと、なんと北海道拓殖銀行が倒産したとのニュース、ウソだー!と、しかし、ほとんどまじめ、本当らしい。困る、メインバンクはたくぎんなのだ。どうしようと思ったが、今、いるのはエストニア、それも海の上ときた。エーイ!ままよ!最初深刻に心配だったが、そのうち少々心配になり、やがてそのことは忘れてしまった。
12:30サーレマ島の手前のムフ島到着                博物館併設レストラン
ムフについてサーレマのガイドさんと合流、またバスに乗る。
午後1時博物館併設レストランでの昼食。
その場所は、まるでストーンサークルのような不思議な模様を煉瓦程度の大きさで造ってあったり、石を綺麗に積み上げて、塀を造ってあったり、森の中に続く細かい石の道、その道は、昼飯なんかどうでもいいからこっちへお出で、とでもいうように魅力的。それを振り切り角ログ造りのレストランへ入る。

そこにはとても美味しい料理が待っていた。しこたまバスの中でバナタリンを飲んでいたものも、ここではその料理をさかなに美味しいビールにしたづつみ、年輩のアコーデオンひきがステップを踏みたくなるような警戒な民族音楽を奏でる。おなかも満足し、ビールでいい気分になった数人がアコーデオンひきのまわりで踊りはじめる。一人二人増えて、やがて皆で踊りだす。

一汗かいてまたバスに乗る。さほど時間がたたないうちに、だんだんとあたりは暗くなる、クレッサーレへ入る前に、隕石が開けた穴に水がたまり沼を造っているというカーリー湖へ向かった。そこはキャンプ場を兼ねているらしく、少々古びたコテージが数個あった。急な階段を降りていくとそれはあった。そしてまたバスに乗り、クレッサーレへ入り、クレッサーレ城に到着、あたりが薄暗くなっているせいもあるし、この城そのものがあまりうれしくない過去をもっているせいもあり、なんとなく不気味、中に入ると、補修工事
                
中のようであちこち閉鎖されている。どこを見ても不気味、中世の戦国時代に鎧に身を固めた戦士が突然現れても不思議ではない、また、そこここに兵士の霊がいるような、究極は、落とし穴のような10m以上もあるような狭い深い穴の牢獄、当時多くの人間が死んでいったそうだ。その穴のてっぺんに格子の蓋がしてあるが、これは以前、観光でここを訪れた学生が落ちてしまったことがあるとのことで、それから蓋がされたそうだ。

色々あったが、あまりにも不気味で、外に出た時には本当にホッとした。そしてそこで随行してきたヴェンノ氏がタリンへ引き返すために別れた。なんともまた210kmを戻るのだ、ヴェンノ教授ありがとうございました。と皆、心で思ったことだろう。そしてクレッサーレの町に入る。日は暮れたが、まだ時間は早い、ホテルに落ち着いてから、クレッサーレの散策をする。かなり田舎という感じがしたが人通りが結構多い。このサーレマ島というのは、最近になって始めてエストニア人が入れるようになったとのことで、シーリエは始めてこれたということで喜んでいた。今夜の宿「ヴァナリンホテル」で夕食。ちょっと変わった雰囲気のレストラン。各部屋は山小屋風の部屋、今日は良く飲んだ、といいながら、また、お仲間と酒盛りをしてしまった。



1997.11.19
10:00クレッサーレのサナトリウム見学(泥温泉)を行う、暖めた泥に身を沈め、各種病気に対応しようということなのだが、少なくとも化学薬品で生身に対応するより、自然で安心する。ここは結構有名な場所らしく、世界各地から療養しに来る人がいるとかで、日本からも団体で来たことがあるとのこと。サナトリウムに務める方々は非常に真剣で親切で、居心地がよさそうだ。それにしても、折角療養しているところを、また、泥があるとはいえ、肌をさらしているご婦人の回りにゾロゾロと日本人が歩き回ったことをお詫びします。
その後、サナトリウムから少々バスに乗ったところでのレストランでの昼食、午後3時、これからタルトゥへまたフェリーとバスの4時間の旅だ。いったい何処を走っているのか解らないほど暗くなった午後7時タルトゥの町へ着く。 

途中、民家がどこにも見あたらない暗い道をただ一人、ネクタイをきちんとしめ、上品にソフト帽をかぶった紳士が歩いていた、一体何処から来て、何処に向かうのだろうか。途中、バスの天上の窓から星を眺める、辺りは真っ暗、空気が澄んでいるので、北海道の山中で見るよりもあざやかな天の川を見る。

ようやくタルトゥへ入る。タルトゥは確か大学の町だが、やはり同じ名前のラエコヤ広場の周囲にはみやげ物屋さんが多い町だ、タルトゥ日本友好協会のアンネリ・クーバが経営するお店で民芸品を購入、アンネリさんは、我々が来るというので、カエルの民芸品を数多く仕入れたとのことだったが、そのカエルの売れ行きは非常に悪かったように思えて、何となく申し訳なかった。今、目の前には、そんな思いで手に入れた小さなカエルのおきものがいる。私の一番のお気に入りはピンバッジ、帽子はだんだんその成果が増えてくる。そこで自分用に買ったセーターは、後で解ったのだが、BOY用、すなわち少年が着るたぐいのものだった。

ラエコヤ広場周囲お店には、入ると、必ず仲間の誰かと合う、エストニアは物価は非常に安かったのだが、革製品は他の製品に比べると高価な値札がついていたのは何故だろう。その日はタルホテルで夕食をとった。


サナトリウムにて


Tartu日本協会のアンネリ


Tartuのラエコヤ広場




1997.11.20
20日 今日はタルトゥの探索
1632年に前身のグスタフィアナ学院ができ、それが1806年に本館ができたタルトゥ大学を中心にする観光の日、朝食の後、まずはタルトゥ大学の図書館に行く、大きな図書館で各セクションが部屋別に別れていて、全てのセクションの見学に結構な時間がかかった。

天井には四角い天窓が点々と開いており、日光が入り明るい雰囲気をつくっていた。そしてタルトゥ大学に入る、大きく重い鉄の扉を開いて入ったところのすぐ右手に掲示板らしいところに、色々なパンフレットが貼ってあったのだが、そこに日本のカラテの紹介のパンフレットが貼ってあったのには少々驚いた。しばらくしてから2階の講堂に行ったのだが、そこは教会のような雰囲気の講堂で、我々は席についたり、講師席で悦にいったり、少々学生気分に戻ったような感じ。

後で解ったのだが、この大学で宮野さんという日本人の若い女性が日本語を教えている。後日お会いすることがあったのだが、非常に頭脳明晰な人で、小柄な身体の頭部についている口から機関銃のように言葉が出てくるののには驚いた。



その後、タルトゥ大学の最初の学長に捧げられた「天使の橋」を通る坂を昇りながら、横目に1913年にロシア皇帝アレクサンダーに捧げられた「悪魔の橋」を見ながら、ロッスイ通りを歩きトーメの丘に昇った。

上り詰めたところにキスの丘があり、タリンについた日の夜にエヴェリンの家で結婚式をあげた永井隆、良子夫妻がキスの丘の儀式にのっとり、キスの丘でキスをしてから、溜息橋まで女性を抱えて運ぶと愛が永遠に続くと言われる。回りの者達はやんやの歓声でヤレ!ヤレ!の大合唱に、本人達真っ赤になりながら抱えるのではなくオンブで溜息橋まで行った。これで、二人の愛は永遠だ!

そして、トーメの丘で廃墟の大聖堂を見た後、博物館に入った。そこで、日本人の観光客のガイドをしていたのが、後で知る、宮野さんだったらしい。その博物館はなかなか面白い博物館で、大学で教える学科の歴史資料が豊富で、非常に興味深かった。

そして次はタルトゥ郊外の農業博物館に向かった。博物館の壁は赤みがかった丸い石で造られていたのが目立った。綺麗に刈られた芝の展示場いは、色々な種類のトラクターがおいてあり、また、博物館の内部には、エストニアの人々が昔に使っていた、木製の農機具がおいてあった。まてよ、確か、エストニアの野は石がゴロゴロ沸いて出てくるのに、木製では、開墾に相当に手間取っただろうなと思いながら、興味深く見て回った。おおよそを見て回ったところにエストニアの農家の人達が作った麻製品のワイシャツが飾ってあった、手にとってみるとかなりしっかりとした縫製がされている。商品としておいてあるということで値段を聞いたら、日本円で2000円程度、これは安いということで、セーターも含めて、一行は奪い合うように購入、結果、そこにおいて有ったものは、一行が全て買ってしまって完売してしまった。たくもう!かくいう私も麻のシャツを3枚ばかし買ってしまった。今でも重宝している。(非常に丈夫)

さて、今夜のお宿は、本当はタルホテルでの宿泊予定だったが、タルトゥ日本友好協会の特別のはからいで、タルホテルをキャンセルし、急遽タルトゥ郊外の湖を眼前にひかえた山小屋風のロッジでの一泊になった。


Tartu大学正面玄関

Tartu大学内の講堂
ロッスイの坂を上る

これがキスの丘の愛の橋



農業博物館の
壁をバックに佐藤氏

写真が夢のような時間を過ごした暖炉のある部屋、ここで朝まで語り明かした人は胸が熱くなるでしょう。



トルピルと一緒に

ロッジ食事風景

思い出の暖炉 ティモ?

ロッジで踊る


1997.11.21


21日 ロッジの朝、薄氷の貼った湖へ出た。空気は澄み切っていて、とっても美味しい。ここでしばらく過ごしてみたい気分。しかし、朝食を終えた後、一行は、このような素晴らしい一時を設けていただいた、タルトゥ日本協会人達とその場を与えてくれたロッジオーナーとティモという立ち上がったら我々よりも大きいのではないかと思うような犬ちゃん、に感謝の意を表し、タリンまでのバスの人になった。

タリンについて、ホテルでひと休みしてから、オールドタウン観光の前に、駐エストニア日本大使館を表敬だった。そこで大使からのメッセージは、我々には、何とかエストニアの木材や物産を日本で販売できる体制を作って欲しいとのこと。ありゃま!ということでした。確かに、現在のエストニアで伐採できる樹木は全体の40%は可能だということで、フィンランドからはログ等の輸入はあるが、エストニアからはこれからの課題になるだろう。(それにしてもホテルからの道案内がいい加減で失礼しました。木原)



大使館を後にしてしばらくはオールドタウンで自由時間、石畳のの両脇にある古い建物の中の小さな店をあちこち見回り、色々なものを買ったが、全て安い。安くても確かなものが多いことは、高くて確かではないものを買わされているものにとっては、うれしい。




色々な角度から見る、ラエコヤ、どこから見ても見飽きない建物だ。そしてラエコヤを中心にして四方八方に石畳の道が続く、色々な面白い名前がついている。何百年も前に建てられた建物の中に、あるところは小さな窓からエストニア民族の民芸品や衣裳が綺麗に映る。また、古めかしく狭い階段を下りたところにやはり小さい空間に色とりどりの小物や民芸品、どこにいっても楽しい。少々少女趣味ががってはいたが、女房子供は喜んでいた。バラを28本買う、エストニアは花の値段が高い?よく考えたら、日本で自分がバラを買ったことがないので花の値段なんか知らない!



午後8時からは、タリンでは観光として基本的にラエコヤは開放していない、しかし、今回は全くの異例の処置で、我々がその開放しないラエコヤの中での歓迎の演奏会がある。そこではお世話になっているヴェンノ・ラウル率いるエストニア少年合唱団、ロイットメ率いる、エレルヘイン女性合唱団の2団体が我々のためにコンサートを開いてくれるのだ。その気配りには驚かされる。

感動的な演奏が終了した頃合を見計らって、我々は計画していた行動を開始した。鹿内先生が突然に立ち上がり、「森の小さな家」を歌い始める、それまで椅子に座って聴いていた我々一行は一斉に立ち上がり、一人一人が一輪のバラを持ち、歌いながらシーリエを囲んで手渡していく。今回の素晴らしい感動の毎日を与えてくれたエストニアの人達に対する感謝と、そのことに心からの気配りをしてくれたシーリエに対する感謝の気持ちがこのような行動になった。プロを前にして素人合唱団は少々心苦しかったが、しかし、精一杯の気持ちであった。こうして、夢のようなラエコヤのセレモニーは終了した。その後、最後の夜は、今回お世話になった多くのエストニアの友人達を招待して、オールドタウンのレストランで日本側主催レセプションが行われた。


旧市街カタリーナ通り

このラエコヤの2階の広間でコンサートが


VENNO LAUL率いるESTONIAN BOY'S CHOIR

TIIA ROITME率いるTHE CHILDREN'S CHOIRELLERHEIN

日本側主催レセプション

ラエコヤコンサートを聴いて 釧路合唱連盟 石田憲一

感動したもう一つのことは、エストニア滞在の最終日の「ラエコヤ」でのヴェンノ・ラウル氏率いる「エストニア少年合唱団」の演奏である。ラウル氏は、この旅で一番お世話になったひとりで、私達に対し、きめ細かに気を配っていただいた。
私自身、釧路ではじめてお目にかかって以来、その人格と経歴に尊敬の念を抱いていて、初めて彼の合唱団の歌声を聴くことが出来たのは幸せであった。演奏はまさしく彼の人柄そのものと言える。端正で暖かく、オーソドックスな演奏である。「エレルヘイン」のような女性合唱とは異なり、同声の響きの美しさに加え、音楽を支える「Bass(低音)」を含む成人の声が入ることにより、音楽が厚みを増し、表現に幅が出てくるのである。数曲の短い演奏であったが、ボーイソプラノの澄んだ声に、力強い男声が加わった迫力のある演奏は、その名に違わず、エストニアの合唱水準が高いことを証明してくれ、充分過ぎる程楽しませてくれた。
二つの合唱団を聴いて思ったことは、演奏した作品に技術的に難しく、奇をてらったような曲が殆どなく、オーソドックスな作品を確実に演奏していた。また、「ア・カペラ」の曲が中心であり、伴奏付の作品でも、ピアノはあくまでも楽曲の補完する役割を果たし、「声」が主役である作品の演奏が多かった。
昨今の日本の合唱作品の多くがピアノが主役であるがごとく出すぎる傾向にあるのとは大違いである。また、歌うことが好きで、心から楽しんでいる様子の演奏は、聴手をも巻き込んで一緒に楽しめるコンサートに作り上げる指導者の力には感服した。私達の合唱団もこのような雰囲気のコンサートがあっても良いのではないかと考えさせられた。いずれにしても、5年に一度開催される、エストニア全土を「歌の祭典」にしえしまう「エストニア音楽祭」をこの耳で是非聴いてみたいと思った。」



1997.11.22 帰国の日
22日 感動のエストニアとのお別れの日
タリン空港で、ロイットメ率いるエレルヘイン少女合唱団達の美しい歌声とヴェンノ・ラウル夫妻、他多くのエストニアの友人達に見送られ、再会を約束してタリンを発った。エストニア滞在の日々は、本当に休む間もないくらいの毎日が感動の日々、美しい歌声、暖かい心、何か、日本人が昔持っていた心がエストニアの人達に残っているような、とにかく、貴重な時間を過ごさせてもらった。

一行の中には小学生が二人いたが、彼女らは、大きくなってからきっと、凄い思い出になってよみがえるのではないかと思う。エストニアではヴェンノ・ラウル氏は雲の上の人とのこと、そんな雰囲気をみじんも感じさせなくこちらが心苦しくなるくらいの心配りにあらためて感謝したい。後ろ髪を引かれる思いで、エストニアの大地から離れた。

Kohtume veel!

9:45ヘルシンキ着
ヘルシンキ市内観光(バスにて)どうしてこんなに近い国なのに、こんなに違うのだろう。何となく、フィンランドはやはり身近なエストニアとは異なり、ただの外国という思いがしたのは私だけではないでしょう。

17:20再び、日本に向かうFIN AIRの機上の人となる

機内に日本に向かう
サンタクロースと一緒、ああ、クリスマスなんだ--
時間をいつもより早く進めての
23日8:55 成田国際空港に到着 東京で数人と別れ
15:20無事釧路空港着エストニアの旅は終了する。

おひい〜さまあがそ〜らのまうえへにのぼれば〜♪♪

編集文責 広報担当 木原弘隆