Estonia
1999年6月29日〜7月7日
第23回エストニア国際音楽祭南エストニア



1999.6.29-6.30

日本マヘルシンキマタリン

6月29日(火)
集合午後6時 釧路発最終便JAS138便(7時発)で羽田へ向かう。
午後8時40分羽田着 →チャーターバスでホテル成田東急へ(1時間半)楽ちん
成田東急ホテル到着10時 東急ホテルレストランで夕食
6月30日(水)
AM8:30成田空港へ→9:00成田空港到着
成田空港特別待合い室で札幌、東京からの同行メンバーと合流
この時空港待合い室で特別室利用条件の免税店の説明会が行われる。
その後、ドル交換、免税店の利用者と自由行動になる。

AM10:55FINAIR AY074便でGate12から搭乗一路ヘルシンキへ向けて離陸
赤鬼のスチュワードのロバーツ
永井氏の話によると今回のフライトの乗務員の顔ぶれは2年前の旅行の時と一緒のメンバーだとのこと。それにしてもこのロバーツというフィンランド人は愛嬌のある人で、ウィスキーの度重なるおかわりに、眼を丸くして親指をたてながら、いそいそとバーの方にとりにいってくれた。ちなみに私は4回ほどダブルのロックを頼んだ。そしてフィンランドに着いて降りる時に、お礼にセブンスターのボックスをプレゼント、ニコニコにしながらさようなら

9時間30分(7837km)後、現地時間30日
PM2:40
ヘルシンキに到着
日本時間との時差は6時間 日本時間は午後8時40分になる
やっと着いた北欧フィンランドのヘルシンキ!2年前より綺麗で大きくなっていた。

ムーミーちゃんがお出迎え

ヘルシンキ空港からいよいよタリンへ
約1時間ほど遅れて出発、前回は夜の便だったので下がよく見えなかったが、今回は昼で雲が少なかったので、バルト海がよく見えた。とにかく小さな島がたくさんあった。

PM5:40タリン空港に到着
この飛行機は1時間遅れでタリン空港に到着する。

ああ!ガスパルちゃんが歩いている。皆が手を振っている。

空港に入り税関を通ってロビーから外へ出た・・聞こえてきた!あのエレルヘインの歌声が!ロイットメさんがいる。それに、1年半前に釧路で会ったばかりのVENNO LAUL氏率いるエストニア少年合唱団のメンバーが手に花を持ち我々の渡してくれる。
やあ!みんな!久しぶり!皆さん背が伸びたねー!

2年前の1才の誕生日にはまだ全くの赤ん坊が、歩いている。ガスパルちゃんシーリエおばさんに逢ってうれしそう!

大勢の出迎えに感激しながらバスに乗って最初の宿のホテルスースィに向かう。






VENNO LAUL宅訪問


PM6:00ホテル「スースイ」到着 
そして午後6時半まだまだ太陽は随分と高いところにある。まるで昼食のような中で夕食の時間。

食後VENNO LAUL氏と一緒にトラム(路面電車)でVENNO氏のお宅へ向かいホテルを出発
ホテルの前のペテルブルグ通り(国道1号線)を歩いてトラムの停留場へ向かう。

トラムに乗る。このトラムは基本的にキオスク等でキップを購入して乗り、車内のスタンプを押すのだが、ワンマンのためにチェック機構がない、自己申告風でやろうと思えば簡単に無賃乗車が出来るらしいのだが、時々そのチェックがあるとのことで、その時に摘発されると、結構重い罰則が設けられるとのこと。キップの図


VANA LINNのすぐ近くの高級住宅街?のVENNO LAUL氏の居住するマンションに到着、VENNO夫妻の自宅にて各種飲み物、オードブル、全員へのお土産等の接待を受ける。当協会の東京支部より奥様に和服の帯が進呈される。奥様うれしそう。

次から次にクッキーやらケーキをすすめられるが、食べてきたばかりでたべられん、ごめんなさい。VENNO氏の使用するコンピュータがあった。その脇には以前来日した特に我々の協会がプレゼントした七福神の置物が置かれていた。コンピュータのメーカーは日本のものではなかった。これで、出来たばかりの我が協会のホームページをなんとか開きVENNO氏に紹介した。(あまり反応がなかったので解っていなかったのかな?)


VENNO氏が企画した明日からの南エストニアの旅の日程について説明をうける。そこでの全日程は全てVENNO氏が企画し、その経費全てはエストニア少年合唱団が引き受けるとのこと。(全く恐縮してしまう)

VENNO家の部屋はとにかく天井が高い、VENNOさんに合わせたわけでもないだろうが、結果、ドアが大きくなっている。部屋の壁にはVENNOさんの結婚当初のお写真(VENNOさんのハンサムなこと)などが掲げられていた。


VENNO家のダイニングの窓からRaekodaの塔が見える。トーマス爺さんはさすがに見えない。

VENNO家をおいとまする。温かいおもてなし感謝申し上げます。

VENNO家を訪問した我々一行は、長旅の疲れでホテルで休むグループとまだまだ余裕で白夜のold town観光をきめようというグループに別れることになり帰宅組をトラムの停留場まで送る。

それから午後11時過ぎではあるがまだまだ人通りの多い街中に繰り出した。
白夜のタリンはまだまだ人の出が多い、特に女性が美しい。

残り組はVENNO 氏と一緒にold townに繰り出す。

日本大使館を左手に見ながらビル通りを通ってold townへ一行が行く、そして白夜のラエコヤ広場に到着。十分に古い町並み、白夜の雰囲気を楽しんだ後、ホテルに戻る。そして明日からのエストニアの旅に備え、長旅の疲れをとるように眠りについた。

1999.7.1
タリンマタルトゥマリウゲ

7月1日(木)
さあ、今日から南エストニアの各地をまわる旅だ、一般の観光客が立ち入ることが少ないということでなんとなく楽しみ。出発前のペテルブッルグ通り(サンクトペテルブルグ方面)を見る。
VENNO氏は音楽祭準備のために我々とは同行できず、かわりに、奥様が一緒に行動する。先ずは、南下してタルトゥに向かうホテルsusiをAM9:00に出発、

タリン〜タルトゥは186kmある。エストニアの大きさは北海道の約2/3程で、北〜南までの距離が約300kmとのこと。

Tartuへ向けて国道2号線を南下する。一昨年11月に来た時とは空の色も周りの緑の色も雲泥の差、非常に明るいし、かつ信じられないくらい暑い。30度あるとのことで記録的な暑さらしい。


 ここで岡田ガイドのエストニアの話

● 国鳥→つばめ

● 国木→TAMM(どんぐりの木)
UrvasteにあるTAMMは大統領も見に来ている。(樹齢300年)

● 国花→やぐるま草
 (これは麦畑に咲く花である)

●エストニアでは日本人のルーツはエストニアだと言われている。それが民族の大移動で現在のような形になった。日本人とエストニア人とには共通点が多々ある。民族的、文化的にも共通点がある。アイヌ民族の模様がエストニアのそれと非常によく似ている。アイヌはブルーアイである。エストニアに日本と同じ棒とり遊びがある。その他似ている遊びに、おはじき、お手玉に似た遊びがある。

●エストニア人の手を使って数を数える時は、まず、握った状態から指を立てていって数える、日本では手を開いてから指を折っていって数を数えるという差がある。

バスの中ではメンバーの釧路合唱連盟の上田章代さんによるエストニアの歌「森の中の小さな家」を全員で練習する。


    ●エスチック料理の話し

   
マンナブル
   
(1)500mlのミルクを沸騰させる。
   (2)火を弱めて、砂糖と塩を入れる 
     (個人の好みで加減する)
   (3)そして麦の粉を入れる。

  
   
マンナクレーム
    
マンナブルのところのミルクの代わ
    りにジュースを入れる。そして、火
    を止めてから泡立てる。

3時間後のAM12:00バスは大学の街Tartuに到着する。タルトゥは大学の町であり、文化の町であり、エストニアの精神的都市と言われる。タルトゥの人口の15%が学生が占めている。

そしてやはりその中心は母なる川というエマユギ川沿いにあるラエコヤ広場、広場はやはり昔ながらの石畳で、その広場を見おろすように、市庁舎が建っている。後でこの市庁舎の2階でタルトゥ市長への表敬がある。

それまでは自由時間、広場には噴水がありその周りには、学生と思われる多くの若者がたむろしている。暑い!近くに特設のビヤガーデンがあったので先ずは、エストニアの地ビールのSAKUで喉を潤す、う〜ん!うま〜い!喉もほどよく潤った、さあ、散策だ!

上田氏が、エマユギ川に渡る歩行者専用の橋を見て、おい!おい!今あの橋の欄干の上を歩いてきたやつがいるぞ!あそこはわたれるのかな、と言う。あまり暑いのでついに・・と思ったが、近づいてみるとたしかに、その欄干にはスタートと白いペンキで書かれており、足跡がある。

エストニアにもバカなやつがいるものだと思っていたら、何と上田氏が渡ってみると言い出した。まだ酔ってもいないのに、まさか本気でやるとはエーイ!そのまま落ちてエマユギ川に生息せい!と思いながら、欄干に駆け昇ったトクさんを見ていたが、すぐさまコワーイ!を連発し、ヨロヨロと戻ってきて全く安全なところで急に胸をはり、おい!写真を撮れときた。辺りを歩くエストニア人の冷たい眼差しから少しでも早く逃れるために急いでシャッターをきったのがこの写真。

1時間ほどの自由時間の後、ラエコヤ広場の市庁舎で市長表敬のはずだったが福祉担当副市長になった。副市長他2人のお役人が立会、協会からタルトゥ市へのプレゼントが渡され、市側からタルトゥ市の説明から色々なタルトゥに関する話しをしていただいた。そして皆で記念写真をとって表敬は終了した。

暗い部屋からまぶしい外へ出たときに、とっても元気そうにニッコニッコした笑顔の宮野さんが、自分がタルトゥ大学で日本語を教えている二人の学生を連れて会いにきていた。本当に元気で健康的な人だ〜!まさにダダダダッ!と機関銃のような口調が印象に残る。

タルトゥでの予定が終了したPM1:00、一行はいよいよ南エストニアの奥深く、昼食予定のサンガステへ向けて出発する。

タリンからタルトゥまでの道路とは少々趣が異なり、舗装道路ではなく細かい石を踏み固めたような野の中の道路を走る。この感じが一番いい。そして、さらに道が細くなり、バスの側面を木々の枝がぶつかりキーキー言わせて走る、こんなところはバスは走ってはいけないんではと思うが運転手はそんなことは構うことなく走らせる。そして、広場に出ると、そこには大きなお城のような建物が忽然と姿を現した。


サンガステまでの約1時間の道のりだった。バスを降りると、あれ!なんとVIIVE KUKSさんがご主人と一緒に出迎えに来ている、何年前だろうか釧路に来てしばらく滞在して絵を描いていたのは、少々お年をめされたような感じがしたが、品のいい様相と物腰は以前と変わらない。(ちなみにホテル山水のVIIVEさんの絵は未だに買っていく人がいる)そのそばにはリウゲの区長という人他数名の現地の人がいた。

午後2時になっているのでお腹がすいているためさっそく食事ということで、古めかしい城内に入っていく、中は暗くあちこちに鹿の角やらフクロウの剥製やら色々飾ってある、山の中の雰囲気タップリ。そこでホテル以外での食事の最初はなかなかの料理だった。

最初のスープがおいしい、また、肉がだめな人のために野菜を中心にした食事も出されたが、どこで作っているんだろうかと思うほど、人影が見えなく、調理の音も聞こえない。そんな中楽しく昼食をいただいた。

食後お城の周り野原を楽しみ、城の入り口の声が天井をはうしかけを楽しんだ後、PM3:00に今度はウルヴァステという場所に向かって出発、我々の機関誌の名前とタイトル絵の元になったのがTAMMの木で、挿し絵はVIIVEさんがこれから行くところにある木を描いたものを利用させてもらっている。

ウルヴァステまでは平坦な野原が続く道である。30分ほどでウルヴァステに到着、そして国木であり、ネリ大統領も観賞に来たという樹齢300年のミズナラの老木がそこにいた。国木の象徴の貫禄を見せている。

木肌にはあちこち修復の痕跡があり、大切に扱われているようだ、この幹の太さは我々が9名両手を広げてつないでようやく囲むことができる大きさである。その周りに寝ころんだりしながら時間を過ごした後、PM5:00に今日の宿になるリウゲに向けてウルヴァステを後にした。

PM6:30頃リウゲに着く、まだまだ明るいなんとも静かなところだ、ここから我々は各班に分かれて3カ所に分宿になるのだが、それぞれがバスで10分くらい走らないと着かないようなところ。


会長一行は第2班で、バスは途中までしか入れず、皆さんは荷物をかついて、トボトボとリユーゲの草原を歩いて行かなければいけない。さあ、その道は何処に行くのだろう。一時してから、3カ所に別れた一行をバスで拾い集めて夕食会場へ向かった。

その場所に午後8時到着、バスを降りて歩いていくと、突然、バグパイプの音が聞こえてきた、ワオー!Torupillだ!解散してしまったはずの全員が勢揃いをして楽器を奏でていた。

アンツの家族も来ていた。Torupillの演奏を前に一行は感動してたたずむ、そしてTorupillのメンバーとアンツの家族からからは野で摘んだ美しい花が皆の手に渡されていく。


2年前にTartu郊外のロッジでの夢のような時間を過ごした後夜中にアンツの運転するオンボロのボンゴ車が・・・という下りが前回の旅行記にあるが、そのアンツの青い車が目の前にある。プジョーだ、たしかに古いが、なかなかどうして立派な車だ。Torupillからの歓迎の演奏で迎えられた後、直ぐに夕食となる。食事終了後 いよいよTorupillの演奏会。

その前にアンツの挨拶があった「今回の日本からの友人達を迎えるにあたり、既に解散し今はバラバラで活動している元トルピルのメンバーに話をしたところ、皆が喜んで集まろうということになり今がある、心より皆さんを歓迎します。」

というなんとも信じられないくらいうれしい言葉があった。そしてあの懐かしい歌と演奏が始まった。アンツの父上のヨハネスさんもお元気そうだ。俗称アルシンドも変わらない。そして、Toropillの演奏に合わせて、楽しい忙しいダンスを踊る。

Toropiruの演奏が終了した頃アンツの申し出によりアンツファミリーアンサンブルの演奏が披露された。次に娘さん二人のボーカルに続き最後にお人形のようなTonis坊やの独演で演奏会は終了する。


PM10:30夜も遅くなり白夜の空もようやく夜の帳をおろし始めた頃我ToropillとAntsfamilyはプジョーとアウディに分乗し、軟らかいクラクションをならして暗い林の中に溶け込んでいった。

楽しい一時の余韻に浸りながら、その後食事をした小屋で、アンネリ・クーバが用意した皮製品の販売が行われ、皆さんは財布や眼鏡ケースなどを購入していた。その後、一行はバスにてそれぞれの宿へ送られていった。




後日、我々のウルヴァステ見学の記事が新聞に載る。
木の根本に寝ころぶ洋一と中村会長、撮影中の中塚氏が見える!

1999.7.2
リウゲスールムナマギタルトゥタリン

7月2日(金)
今日は南エストニアの最終探訪日、リウゲでの我々の宿は、なかなか素晴らしかった。周りには他の建物らしきものはなく、眼の前には池がある。朝、食事の前に外へ出てみると、この家の可愛い姉妹が水着姿でその池に飛び込んで水遊びをしている。今はきっとなが〜い夏休みなのだろう。

風もなく車の音も、なんの音も聞こえない、山の中、山の中の動物達の鳴き声も静か、どうなっているんだろう。すがすがし朝の空気を楽しんでいるうちに、朝食AM7:45のお知らせがきた。

今回の朝食には新鮮なトマトがついている、小さいがおいしい。子供たちが人なつこい、宿の人々と別れを告げバスにのる。

Center of Rougeに皆が集まり、通常観光客には開放していない自然林をリューゲ地区のお役人の許可のもとアラ氏という方が案内してくれた。

原生花園ような野の中に、山の上に住む人達へ水を供給する吸水の機械(世界で最も古い)が今もなお動いていた。このリウゲ地区は人手がまるで入っていない自然のままのような湖の数がやたらと多く、そこに居住する人々も自然を壊さないように厳しく律して共存している。

水鳥の水飲み場と言われる池があったり、この林には随所に南エストニアの人々が自然を大切にしている箇所が見受けられる。自然の中の遊歩道は勿論一切の人工物は使用しておらず、ましてそこを流れる何のへんてつもない小川も埋めてしまうことなく、それを避けるように、あるいは並行して道が細く設けられており、何か、人間がその自然の中を遠慮がちに通させてもらっているよだ。

しばらく歩いて林をようやくぬけた所に、この林の中で若者達が集まり踊りや歌を歌う場所があった。そして最後はそこに一件しかないお土産売場があり、岡田氏がここは非常に安いということで我々は先を争うように手当たり次第に買いあさっていった。我々と同行しているVENNO婦人もその値段の安さに驚き、さて買おうと思った時には、あらかた買われて品物がなくなっていたとのこと。凄い!どこかのデパートのバーゲンセール並だった。ということで、お世話になったリューゲを後にして一路エストニアの最高峰スールムナマギへ向かってバスは走り出した。



スールムナマギが近づくに従って、結構急な坂を昇ったり降りたりと、平坦な道に慣れてきた我々には何とも不思議な気持ちにさせられた。洋一氏の話しでは、この辺りにESTONIA唯一のスキーゲレンデがあるという話はうなずける。

そしてスールムナマギに到着、その台地の頂上めがけて一行が登り始めた頃、なんと昨日のアンツが奥さんとあの可愛い末っ子のTonisを連れてやってきて一緒にニコニコしながら一緒に昇り始めたではないか。塔までは真っ直ぐな登りで若干2名がヒーフーヒーフーいいながら昇っていたが他のメンバーはなんなく塔までの坂道を昇ることができた。Tonisは走るように昇り、昇ってはまた親のもとに駆け戻るというように、日本の6才の子供と何ら変わることがない。前歯の虫歯が気になる。

坂道を昇りきった所に塔の入り口があり、今度は螺旋階段で煙突のような塔を昇っていく。途中の休憩箇所には過去の歴史を物語る写真が多く掲げられていた。そしてようやく塔頂到着、このスールムナマギはエストニア民族の色々な歌に歌われている。

しかし、とにかくこの塔から見える範囲は全く山がない、平坦な風景が続く。今は平和で自由の大地だ。

  ●SUUR MUNAMAGI
直訳すると「大きな卵の丘」エズトニア、ラトビア、リトアニアの三国の中での最高峰(318M)その上に29mの展望台が建てられている。展望台からはロシア、ラトビア領を含む半径50kmの範囲が視界に納まる。
1873年にエストニア人言語学者ミヒケル・ヴェスケが書いた「祖国」という詩の冒頭にムナマギ山が引用されている。

・・・
知っているか、ペイプシ湖岸からバルト海の沿岸まで広がりムナマキ山の森と草原から穏やかなフィンランド湾まで広がる国を・・・
この詩は、エストニア人なら誰でも知っている行進曲「祖国」の歌詞として歌われる。


そしてバスはヴル市で一休みをしてからTonisちゃんをバスに乗せて、アンツ夫妻は自分の車で、昼食会場のKarilasiという場所にあるニジマスの養殖場を兼ねている野外レストランへ向かう。青い眼の可愛い子供に眼がない仲尾さん、帽子を交換。

やがてバスはKarilasiの野外レストランへ到着、そこには既に我々のために、色々な食事が盛りだくさんに用意されている。これもベンノ氏の特別な計らい。

「鱒のオーブン焼き、チーズ、チキン・レバー焼き、パン、ウインナー、果物、等美味しそうな食事のバイキングで食事を楽しむ。この鱒養殖場は規模も大きくログハウスも立派で、これが個人経営によるものということでびっくり」と仲尾さんは話す。

鱒のオーブン焼きを藤田さんと洋一さんは皆さんのために一生懸命さばいていた。

楽しい昼食もお腹いっぱいになり、食後ののどかな一時を過ごした後、アンツ親子とやはりわざわざ自家用車で来ていただいたヴィーベクックス夫妻と再会を約束して別れる、そして一路Tartuへ向かった。


Tartuに到着、最終集合場所をエマユギ川沿いのバス発着場に決めてそれぞれ自由解散。我々はデパートに入った。トクさんがどうしてもトイレへ行きたかったのだが、どこにもない、デパートの中にあるだろうということで探し回ったがどこにも見当たらない。外に出てもそれらしいところはない。困っていたところに、岡田夫妻が通りがかった。そのことを打ち明けると、洋一さんが店員と何事か話している。店員大きくうなずくと、トクさんを手招きし、従業員通用口みたいなところから入れという。果たしてそこには、トイレがあるらしく、トクさんは歓びいさんでドアの中に飛び込んでいった。それから数分、トク氏は店員にアエタ!、アエタ!を連発しながらニコニコしながらドアから出てきたのであった。中塚氏はこのデパートで涼しいシャツを買うために必死に店員と身ぶり手振りでやりとりして、ようやく気に入った品物を手に入れたようである。満足満足、そして我々はデパートを出てラエコヤ広場での屋外テラスでのSAKUビール飲みたさにまっしぐら。とにかく暑い、まずはビールを飲んだ。瞬く間に集合時間、若干の遅れた人がいたが、何とか集合場所にみな集まり、それでは後はTallinnまでノンストップのバスの旅、朝早くから、結構過酷なスケージュールのために、バスの中は皆さん居眠り時間。

そして今日から3泊する予定のセントラルホテルに到着。既に夜も更けてきているのだが、まだ明るいので時間の感覚がおかしくなってきている。1日が非常に長く感じる。この夕食では、駐エストニア日本大使の藤井氏が我々に合うためにレストランにやってきた。藤井さんの挨拶の後、以前、山本夫妻の発案で、釧路市から友好の桜がエストニアのタリンに贈られたが、それに対してタリン市長との懇談が設定され、岡田夫妻、中村会長、永井事務局長、そして釧路市を代表しての参加の藤田氏が食事のさなかに急遽その懇談会場へと向かった。

一方我々は夕食後は自由行動だった。たっぷりと白夜を楽しもう。ただ天気が悪い!

1999.7.3
タリンダンスパフォーマンス

7月3日(土)
さあ!今日はダンスフェスティバルだ。それまで自由時間がまたまた与えられる、早々に朝食を済ませて外出する。私は前回行けなかったところを回るつもりで出た。中塚氏は自称映像作家としての本領発揮の予定だったが私があまりにも早く歩き回るために不満気味、そんなことにおかまいなく、どんどん足を進めるトクさんと私だった。

世界文化遺産に指定されたせいか、市街はいたるところで工事がなされていた。旧市街の石畳の上で単パンをはいてランニングの準備運動をしている日本人がいた、何と今回空港に我々を迎えにきていたエストニア在住の若き小説家ではないか。挨拶をかわす。彼はこれからピリタまでランニングをするとのこと。彼のアパートメントはこの写真の右側の建物の3階だとか。

左にふとっちょのマルガリータ(タリン博物館)をしてPikk通りを見るここは旧市街の北の城門である。

おい!おい!もちょっとゆっくり歩けんのか!といいながら被写景色を求めるどん欲ななんじゃもんじゃ共和国大統領中塚氏。

ムナマギでは少々具合が悪くなったがようやく回復し歩けるようになった上田章代さんと今回で3回目のエストニアとなるベテランの河原田さんも元気にVana Linn散策を楽しんでいる。

そしてバナリンナの夜も更け、ホテルに戻って長旅の疲れを癒すべくゆっくり休んだ。明日からは、いよいよ、音楽と踊りのお祭りだ。

つかの間の自由時間の後、一行はホテルに集合して、さあ、いよいよダンスパフォーマンス会場のカレフ中央スタディアムまでのバスに乗る。かなりの人出が予想されるので、迷子にならぬようにと岡田洋一氏から指示が出る。もし、迷子になったらあわてず、セントラルホテルまでタクシーで帰ってくること。

カレフ中央スタディアムの会場周辺は、民族衣裳に身をかためたエストニア人やそれを見に来た観客でごったがえしている。洋一が棒にハンカチを結び、それを高くさしあげて我々を先導していく。なんとか無事に会場に入り、自分の席を見つけ腰をおちつけてパフォーマンスの開演を待った。

大きなカレフ中央スタディアムの満席の会場で、エストニア各地のあるいは、各種民族音楽団の様々な衣裳に身をつつんだ驚くほど大勢の人々による踊りが始まった。

このような大きな会場で会場いっぱいに広がって繰り広げられる一糸乱れず、そして楽しそうに、そしてこうして自分達の民族の文化を大勢の人々に見てもらえるのが誇らしそうに踊りあげる。

まだ幼い子供たちの可愛い踊り、それと入れ替わり、少年少女、さらに青年代の男女、そして壮年の男女、そして最後に過去の辛い時代にほとんどの時代をささげた、そしてその中で力強く自分達の息子娘達を誇りを持って育ててきたおばあちゃん達が胸に大きな金属製の紋章を掲げて、そして自由になった歓びの歌を歌い上げる。

その歌が終わり、歌いながら場外へ繋がる階段を昇りながら退出する時に、その後を踊る黒い山高帽に黒い民族衣装を着た青年達とすれ違う時、青年達は立ち止まり、エストニアの母なる偉大な女性にその山高帽を脱いで、軽く会釈をしながら道を開けていく。こんな当たり前の行為に何でジーンと胸を打たれ、涙が滲んでくるのだろうと思ったが、最近の日本ではこのような情景があまりにもない、失われている。何か忘れかけた大切なものを見たように感じた。

意味がよく理解できなかったが、エストニアの人々は馬を使い畑を耕すことの大切さを表現しているように思えたのだが、真実はいかに。

あるいは、このダンスパフォーマンスの進行状況を土を耕すことで表現しているような、この催しの最中に何回ともなくこの馬は畑を耕したのだ。そして、一生懸命畑を耕した馬は最後に、一人の男を乗せて、参加者、観客の見守る中会場のトラックを3周して、場外に消えていった。何を意味しているんだろう?

フィナーレに近づくに従って、空模様があやしくなってきて、始めは小雨程度がだんだんと大粒の雨になってゆき、みるみる黒い雲が会場の空を埋め尽くしフィナーレの最中はエストニアでは珍しいと言われる雷が鳴り響いた。

その中で雨に打たれながらも踊る人々の顔は笑顔に満ちていて、雷さえも楽しんでいるように見えた。それにしてもなんとエストニアの人々は自分達の昔から言い伝えられてきた文化や民族の意識をいかに大切にしているかが伺いしれるパフォーマンスであった。

洋一さんが言うには、このエストニアでの民族衣装の中で一番美しいとされているのはムフ島の民族衣装と言われているとのこと。スカートが黄色い一番下の写真の民族衣装がムフ島のものである。ちなみに、前回の旅行でムフを訪れているが、雰囲気の落ち着いたいいところだった。

ダンスパフォーマンスは最後はざんざん振りの雨の中で終了し、一行は一人の迷子も出すことなくホテルへ戻るバスに人となる。

スタディアムからセントラルホテルに戻り一行はそこから歩いてVANALINNの中にある昼食会場へ向かった。

Raekoja広場のすぐ近くのレストランに入った。浮世絵風の絵を後ろにいれたサムエを着て上の説明を一生懸命する岡田洋一さんが言うには、このレストランは、商人の館クローム(小人)と呼ばれており、以前は1階が経営者が居住するところで、2階、3階に店があったそうだ。どうしてそうなったかというと、昔は泥棒が横行しており、泥棒に入られないために、店に入るには自宅を通って店に入るようになっていればさすがの泥棒もできないだろうということでそうなったらしい。

●うーむ!ここにも映像作家73才が険しいカメラ目線で回りを見ている。
●ここで紹介しよう。我々の音楽祭のガイドさんマリカ嬢(?才)エストニアンホリデー社員、なかなかの美人

食事をしている間にすっかりと雨もあがり、これからはパレードの観賞だけに自由時間VANALINNの中を十分に堪能できる時間が始まる。

Vana linnのど真ん中で、今日は夕食までは自由時間、パレードを見るもよし、他を見て歩くもよし、とにかく夕食時にホテルに集合するだけとなった。それぞれ興味ある方面へ散らばって行った。

土産物店をあちこちのぞきながらPikk通りの坂を展望台めがけて昇っている時に、パレードの準備のためにトーンペアに向かう昔お嬢様方にお逢いする。そしてパチリ!

坂の途中Pikk通りのわき道に見えた古いというよりボロボロの家、しかしそれは廃屋ではなく、窓からは電球のあかりが見えていた。いったいこの世界文化遺産の街に住んでいる人はどんな人なんだろう。Pikk通りからピックヤルク通りの坂を登り展望台に到着してそこからパチリ、展望台周辺の店を探索してまわる。そして出番を待つパレードの一団の中をかき分けるようにら歩いていった。

皆、これから始まるパレードに興奮しているようだ。11月のエストニアは暗く、人は厚手の外套に身をつつみ、何かに耐えているように寡黙に道を歩いていた。こういう華やいだ雰囲気は全くと言っていいほどなかった。我々は途中で、釧路に来たばっかりのレイガリットの旗を見つけ、その見覚えのあるメンバーと挨拶をかわした。そうしてきっと皆がパレードを見ているホテルの前のナルバ街道に来た時には既にパレードは始まっていた。

我々の中には、このパレードを6時間以上見学して、そして気に入ったグループがくると声をかけ激励をすることをやっていた。特に、ヴェンノ・ラウル率いるタリン少年合唱団、エレルヘイン少女合唱団、が通る時には、我々は岡田洋一のエラブー〜!に合わせて声をはりあげる。それに対応して彼ら彼女らが満面の笑みをうかべて大きな声で対応する。

30度を越える暑いさなか、6時間以上も沿道にたちつづけ、声援を送っていた一行は非常に疲れたみたい。
このパレードは4km以上続き、我々の夕食の時間がきてもまだ続いており、岡田洋一さんなどは飯なんかいらないからパレードを見ていたいというほど熱くなっていた。

連日30度を越える暑さの中、今日は外にいる時間が非常に長く、皆さん顔が真っ黒になってきている。今夜8時からは音楽祭の開会式、仲間からは10名の参加が出て、残りはまたVana linnに散っていった。


1999.7.4
タリン・第23回エストニア音楽祭・ロッカルマレー

7月4日(日)
今日はいよいよ午後5時より、野外音楽堂で第23回音楽祭に参加する日である。今回の旅の大きな目的の一つ、それまでは、タリンでの自由時間であるが、一行は、洋一とエストニアンホリデーのマリカをガイドにVana linnの説明を受けるべくold townに繰り出した。                             

まずは、Vana linnのシンボル、Raekoda(旧市庁舎)の塔のてっぺんのトーマスじいさん。この塔は65mで、塔の上からは有名なタリンのシンボル、トーマスじいさん(Vana Toomas)が300年の町の変遷を眺め続けている。(老朽化のために最近新しく複製された)この市庁舎にはTALLINNの旗が掲げられている。前回の旅の時は、この市庁舎の中で我々の為の歓迎セレモニーが開催されたのだった。そこで森の小さな家の歌を前回の一行全員が歌いながらシーリエに1本のバラの花を渡していったのが昨日のように思い出される。                                                                             

その市庁舎の前のRaekoja platsという広場は、色々な言われがある。広場の石畳の上のこのL字型の敷石は1695年に腐った卵焼きを食べさせたことに怒ったPanickeという牧師がそのコックを殴り殺した時に、その牧師が殺人罪で斬首された場所を示している。当時は、犯罪をおかした者は城外で斬首されたのだが、この牧師だけがその罪の重さからか、場内のこの場所で処刑されたとのこと。そこには中世の井戸の跡があったりする。また周囲の建物にも色々な歴史があり、当時のドイツの金持ちの組合の家というのがあったり、Maiasmokk(マイアスモック)カフェという創業200年を越えるカフェがある。
                                                                                                                                                                                                      ここは、1864年創業の老舗のお菓子屋さん。1階は大衆カフェである。

このほか色々なところを見学してあるき、展望台に昇ってきたところが凄い人出、そしてそこを何とかくぐりぬけてトンペアの大聖堂のところでひとまず全員集合となったのだが、何と二人ばかり行方不明、バスは待っているし、それで手分けして皆で探し回るが、何処にも見当たらない。女性二人で一人の方は前回もここに来ているので、まあ心配ないだろうということで、きっと迷子になってセントラルホテルの方に行くだろうということで。我々は、トーンペアの城壁で待っていたバスにのった。

迷子になっている人達を拾いにセントラルホテルに立ち寄ったのだが、二人の女性はホテルには戻ってきていない様子、ホテルのフロントに書き置きを「昼食会場である、カドリオルグ公園のレストラン「レンビトー」で待っているという書き置きを残し、我々はバルトの海沿いの道をカドリオルグ公園に向かって走った。

昼食会場に着いて、それぞれが食事がはじまってしばらくしてから二人の女性が、恥ずかしそうに合流したのだった。個人の名誉のために名は伏せます。

やっと安心していよいよ第23回エストニア音楽祭の会場のドームに向かうことになる。会場についてみると、民族衣装の人、ネクタイ姿の合唱団、そしてそれらを見学する入場者で会場はごったがえしており、岡田洋一がとにかく迷子にならないようにとの厳重な注意のもと、そのごったがえす会場に入っていった。

会場に入る前に岡田氏から参加証明のバッジを胸につけ、群衆の中に入っていった。

会場はVENNO 氏が我々のためにA席をとっておいてくれたおかげで、会場に入れずにいる人々をしりめに前方の席に自由に着くことができた。後を見る、人の山、20万人以上はいる。世界中から集まった人々である。聞くところによると日本からも3千人程度来ているとのこと。会場周辺はみやげ物屋さんや、食べ物の露天が出ており、中と同じように腰を降ろす場所がないくらいに人ひとであふれていた。

そして開幕、一人の指揮者がドームの中3万人の大合唱を操る、3万人の声の前に20万人の人々が聞いている。こんな状況は現実なのだが、まるで現実のような雰囲気ではない。その声はもう声ではなく美しい大音響。これが独立を獲得したエストニア人の原動力なのだということを実感した。我々一行が興奮したのは、やはり、エレルヘイン少女合唱団率いるロイットメが指揮する場面と、もっと興奮したのは、やはり次の代にこの音楽祭を仕切る人になるだろう、Venno Laulが壇上にたって指揮をした時には、人目もはばからずオー!っと声をあげてしまった。「ヴェンノラウルー!!」

会場の外は、色々なみやげ物店や、日本の祭りの夜店のような食べ物を売るところがたくさん出ており、中も人でいっぱいだったが、それ以上に外も人だらけだった。

                     フィナーレを迎え、合唱に参加した全員と会場の観客が立ち上がりエストニアの国家と、そしてエストニア人が最も愛する歌「わが祖国はわが愛」を皆で歌い上げる。周りを見ると、涙を流しながら歌っている人がいた。やはり深い思いがあるのだろう。                                  

音楽祭が終了し、約30万人の群衆が一斉に帰路につく、途中でフィナーレで胴上げをされていた我らがVenno Laul氏と合流し」、一緒にバスの待つ場所に戻る。ところがバスが待つ場所にいくら待っていても10数人が戻ってこない。VENNO氏がレイを片手にぶら下げたまま、戻ってこない人々を探しに今来た道を足早の大股で戻っていった。何とも申し訳ない。そして数人の仲間を連れてVENNO氏が戻ってきた。残りが行方不明だ、ロッカルマレーでのエレルヘインや少年合唱団による歓迎セレモニーも迫っていたので、きっとホテルに戻っているだろうということで、バスは出発する。


ホテルに着いてみると案の定残りの全員がホテルに着いていた。全員が揃ったのでロッカルマレーに出発した。

タリン中心部より南西20km程度行ったバルト海を望むロッカルマレーに到着そこにある野外レストランで夕食となるのだが、そこには、すでに少年合唱団やエレルヘイン少女合唱団やリウゲで一緒だったVIIVE夫妻、そしてTartu日本教会のメンバー、ヘイキバレステ氏、エヴェリン夫妻や他のエストニアの友人達が待ちかまえており、彼ら彼女らと合う前にまずは食事となる。

そこではこの旅行で始めて日本食らしいものを食べた。

食後、音楽祭終了後の疲れた身体を我々のために直接駆けつけてくれた、Venno Laul率いるエストニア年合唱団、Tiia Loitme率いるエレルヘイン少女合唱団が美しい歌声で我々を迎えてくれた。

そばの教会でエレルヘイン少女合唱団の歌声の中Loitmeに数人の仲間が呼び出され神の祝福を受けていた。教会でのセレモニー終了後少年少女達、知人、友人達との交流パーティ楽しい時間も過ぎて、再会を約束して我々はバスで一路セントラルホテルに向かった。

その夜遅くまでこれまでの色々な出来事で興奮しておりなかなか寝つけなかった。部屋の窓の外に目をやり、自分が北欧にいること、その空に浮かぶ雲が日本では見られないような不思議な形をしており、しばらくその不思議な形をした雲を見続けてた。


1999.7.5
タリン・ボタニック植物園・キャスム

7月5日(月)
昨夜の余韻が残っているが、南エストニアから始まり、ダンス、パレード、音楽祭という大きな日程も無事終了し、最後にもう一つ大きな目的であったタリンボタニックガーデンの桜見学である。日本から贈った桜がどうなっているかを見に行く日、ボタニックガーデンに着いた時、コーヒーや紅茶と菓子等の心配りがされていた。

ユリ・オット園長から今回の桜寄贈に対して感謝の言葉があり、次に関係者それぞれから挨拶をいただいた。その後、記録的な暑さの中、園を案内された。色々な花や植物、樹木等を見ていったが、気になるのはやはり桜、そしてついにエストニアの土に根を張っている1本の桜の苗が、周りを頑丈に補強されて、壊れ物でも扱うように丁重すぎるくらいに植えられていた。他の苗は別の場所で丁重に育てられているとのこと。

枯れてはいないので今のところは安心、安心、過去にも日本から贈られた樹木などがあり、日本とのつながりが古くからあるようだ。

そして大事そうに添木がされた1本の桜の苗の前で全員集合してパチリ。

桜の苗が元気で育つことを祈りながらボタニックガーデンを後にした。


その後、キャスム方面に向かって、北エストニア独特の平坦で素朴な道を1時間程ナルバ街道をバスは走り、本日の昼食会場のアルティヤに到着する。

ここはラヘマー国立公園の中にあって、400年の漁村という歴史を持つ場所である。ここは食事も出来るが、宿泊施設も整っている。ここで食事を楽しんだり、野原で子供のようにブランコで遊んだり、海岸へ出て、大小の赤茶けた岩のゴロゴロするバルトの海を見学して時間を過ごした。

次に、Sagadiという場所にある、昔のドイツ貴族の館(サガディの館)を見学する。ここは森林博物館にもなっている。その館で色々な骨董品を見る。サーレマにせよ、ここにせよ歴史が物語る場所だ。

次に、パルムセにある、パルムセの館という場所に行き、そこにある土産物売場ではここが最後の土産物売場だということで残っているエストニアのお金を全部使うべく、会計のおばさんの電卓が壊れてしまい、我々の持っていた電卓をプレゼントしなければいけないくらいに買いあさった。かたっぱしからという言葉はこういうのを言うのだろう。我ながらよく買ったものだと思うが山のように買ったが1万円を少々越える程度だったと思う。素焼きの人形をたくさん買った。

人が少なく、静かで、ゴミ一つ落ちていなくてなかなか気持ちのよい場所であった。

買い物戦争も終わり、最後はフマエの墓地に行く、きれいに整備され、歩くことが申し訳ないようなとろであった。

ようやくバスは今回の旅の最後の宿泊地であるキャスムに向かってバスは走り出した。


ここは南エストニアとはまた雰囲気が全然異なる、海に突き出た半島になっているので、山の中とは空気も違う、海水浴場もあるようで、水着姿の親子も歩いていた。

しかし、どこに行ってもそうであったが、人が少ない、一番大きな建物の庭で最後の夕食となったのだが、皆さん、明日は帰国するだけということで、リラックスして夕食を楽しんだ。ところがこの宿にあった、酒があっというまに底をつき、少々離れた店に買い出しにでかけ、店の酒を全部買ってきたようだ。

その後、この宿の主の子供たちと遊び、汗を流した後、一行は白夜の夕暮れが近づく中、キャスム半島のブルーベリーの実が一面になっている静かな林の散策、バルトの穏やかな白夜の海岸を散策しに出かけた。素晴らしかったようである。残り組は、誰よりも先にエストニア式サウナに入った。後は各々の部屋で夜遅くまで最後の夜を楽しんでいた。

最後に下の写真は知る人ぞ知る場所で夢の宿泊場所であった。(旅行記制作者偏見)

1999.7.6
キャスム・タリン・帰国

7月6日(火)
キャスムでの朝はすがすがしい朝で、後はタリンに戻り空港へ向かうだけである。今回も単なる観光旅行ではなく、色々なところで色々な人に会ったりすることができて、色々な思い出がたくさんできた。

5年に1回というエストニアの魂のような音楽祭にも参加できたし、南エストニアの自然にも触れることができた。そして、もっとよかったところは、やはりタリンやタルトゥで沢山の自由時間がとれて、思うがままの探索ができたこと、でも、まだ足りないが、これは貴重な体験をしたものと思う。

VENNO LAUL氏は英国へ行っているために最後にお逢いすることが出来なかったが、今回の旅の殆どを計画してくれ、さらには、南エストニアについては、その費用を彼が持ってくれた。誠に恐縮してしまう。そしてその忙しいさなか奥様が全日程に同行して下さった。なかなか出来ないことだと思う。感謝したい。

アンツの特別な計らいで懐かしいトルピルを聞くことができたし、まさかのヨハネス爺さんもわざわざ出演されてくれた。

ヴィーヴェ夫妻も我々のために貴重な時間をさいておつき合いいただいた。そしてロイットメさんのエレルヘインの少女達、タルトゥ日本協会のヘイキさんはじめ色々な方、本当にお世話になりました。

日本ではあまり聞き慣れない国のエストニアではあるけれども、我々にとってはどこの国よりも親しい国、友達のたくさんいる国、距離は遠くても非常に近くに感じる国エストニア、是非、また来てみたい。そしてエストニアの国の人が日本にきたら心より暖かく迎えてみたい。というような気持ちで我々はエストニアの大地を後にした。    

エストニアに幸あれ

KOHTUME VEEL!!